日本の歴史昭和

「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」がいる風景~ようこそ!昭和レトロの世界へ~

「ちょっとコレ、昭和レトロっぽくない?」アンティークショップや家具売り場、雑貨屋さんなどでよく耳にするフレーズですよね。ん?でもちょっと待ってください。「昭和レトロ」とはいうものの、昭和って63年もの長きにわたった年代ですよ。そんな半世紀以上も長い期間を指す言葉なのでしょうか。それとも昭和の中の特定の年代を指す言葉なのでしょうか。実ははっきりとした定義はありませんが、日本が戦後復興を遂げた後の昭和30年代後半~昭和50年代初めまでの20年ほどを指すことが多いようです。いわば高度成長期ということですね。この頃に子供だった人は、もう50~60代のシニア世代になります。海外からの新しい文化を取り入れつつも、日本ならではの感覚も融合させた和洋折衷文化のことを「昭和レトロ」というのではないでしょうか。なんだかノスタルジーを感じる「昭和レトロの世界」をご紹介していきたいと思います。

昭和レトロはコンクリートが主役?【建築物編】

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戦後の復興期から高度成長期にかけての技術革新は目覚ましいものがありました。この時期、海外の新しい工法が取り入れられ、日本人がそれまで見たことがなかったような多様な建築物が生まれました。まさに建設ラッシュに湧いたといえるでしょう。人間の生活の基盤というと、やはり「住居」や「インフラ」などが欠かせません。そこで「高層ビル」「住居」に着目してご紹介していきたいと思います。

高層ビル群が次々に出現!コンクリートジャングルが登場

敗戦の直後こそ、資材や重機械の不足によって木造建築が主だった建設業界でしたが、昭和25年から始まった朝鮮戦争によって日本は好景気となり、戦前の水準に復活するまで時間は掛かりませんでした。

米軍の払い下げ品や、官庁などが購入した重機械を貸与してもらうことによって、施工計画は軌道に乗り、やがて業者自身が保有することになりました。経済復興に伴ってビル建設工事も活発化し、パワーショベルコンクリートミキサーの導入によってコンクリート工事の管理技術が飛躍的に向上します。いわゆる従来の「現場練りコンクリート」に代わって強度のある「生コン」が主役になったということですね。

また昭和30年に開発された軽量型鋼(けいりょうかたこう)の登場は画期的で、軽いのに強度に優れているという特性を生かして高層建築物の骨組みとして多用されました。同時期に重量鉄骨(H鋼など)も開発されており、こちらは東京タワーの骨組みとして利用されています。

1971年、戦後復興の総仕上げとして新宿の西に巨大ビル群の建設が始まりました。これが新宿副都心というもので、京王プラザホテルを皮切りに新宿住友ビルディングなど次々と200メートルを超える高層ビルが誕生しました。それまでに完成していた霞ヶ関ビルディングや、1978年開業のサンシャイン60なども含め、都心の至る所にビルが建つようになり、「コンクリートジャングル」と形容されたその風景は、現代の日本を象徴するものとなりました。同時に、その無機質で温かみのない景色は、悪い意味でも【現代日本】を表しているともいえるでしょうね。

日本の住宅事情は、集合住宅と分譲住宅の二極化に

戦後復興が進み、日本の人口が増えるにつれて住宅の確保が重要な課題となってきました。公営住宅法日本住宅公団法が制定されるのに伴い、公営集合住宅(いわゆる団地)が爆発的に増えたのが昭和30~40年代にかけてのこと。居間や寝室、風呂やトイレが完備された団地は大変な人気だったようですね。

都市人口の増大に従って簡易型集合住宅(いわゆるアパートや文化住宅)もこの頃に大きく増え、風呂こそありませんでしたが、低家賃で住めるという利点もあって高い人気がありました。そういった事情から、昭和40年には銭湯の数が全国で2万2000件もあったそうですから驚きです。

高度成長期の昭和40年代を迎えると、日本の住宅事情にも変化が起こってきました。いわゆる「分譲住宅」というもので、国民の所得アップに伴って「自分の家を持つ」ということが憧れとなりました。

都市圏では私鉄の沿線開発が活発になり、通勤圏が郊外へと広がっていくのと同時に、「ニュータウン」に代表されるような戸建て分譲住宅地が増え、「庭付き一戸建て」という一種のステータスのようなものになりました。昭和45年からの5年間で約180万戸もの戸建て住宅が売れたそうですね。

また昭和39年の東京オリンピックを境にして、分譲マンションの数も爆発的に増えました。第1~4次マンションブームと呼ばれ、団地よりもハイソサエティ、しかも戸建て住宅より低額で購入でき、「公庫融資付き」という謳い文句で人気を博しました。

この集合住宅と分譲住宅との二極化は、現在までの日本の住宅モデルケースとなっていますし、国土が狭く、人口が多い日本だからこそ考えられた合理的な方法だといえますね。

ちなみに、「サザエさん」のお宅は分譲住宅ではありませんので。

昭和レトロに恋して【ファッション編】

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昭和レトロの時代は、人々がファッションに目覚めた時代でもありました。海外の映画やドラマに出てくる外国女性に憧れ、ファッションを真似することによって、様々なブームが巻き起こったのです。ここでは女性のファッションについて見ていきましょう。

1960年代。空前のミニスカートブームが到来!

今から10年ほど前になりますが、昨年引退した安室奈美恵さんの曲「NEW LOOK」の中に、こんな歌詞があります。

 

シネマの中のtwiggyのミニスカート真似して

短い髪はTom Boyって言われているけど

だけど I wanna get new look

このキャラに似合ったファッション

 

1960年代には、それまでのクラシカルなスタイルは鳴りを潜め、ミニスカートに代表されるようなポップでキュートなファッションが盛り上がりを見せました。

ジバンシーがデザインしたサックドレスから発生しているといわれていたり、イギリスのデザイナーのマリークワントが若者向けに考案したともされていて、いずれにしてもミニスカートは世界的な流行だったんです。

当時、世界的なスーパーモデルだったツィッギーが来日したのは昭和42年のこと。彼女は「ミニスカートの女王」と呼ばれ、日本中の女子たちの憧れの的になりました。

また歌詞にも出てくる「Tom Boy」はボーイッシュな女の子という意味があり、頭頂部を膨らませる髪型や、大胆な付けまつ毛メイクも流行しました。

この時代のファッションの特徴はミニスカートだけでなく、大胆な色使いや図柄などに代表されるようなポップなものでした。幾何学模様や花柄、ボタニカルチックな図柄を思い切って主張させ、非常に個性的なものだったといえるでしょう。

ミニスカートに引き続いて、イヴ・サンローランが積極的に広めたパンタロンもブームになりました。そのエレガントなパンツスタイルは、新しい女性のファッションスタイルとして定着していくのです。

1970年代。ファッション雑誌黎明期とニュートラ

1970年代に入ると、いわゆるベル・ボトムが流行します。日本ではパンタロンとも呼ばれていましたが、アメリカで流行っていたヒッピー・ファッションを敏感に取り入れ、脚を長く見せる効果もあったため若者の間でブームとなりました。

ちょうどこの頃、日本のファッション界において転機が訪れることに。それが今も人気があるファッション誌「an‘an」「non-no」の創刊でした。1960年代にはアイビー・スタイルが静かな流行になっていましたが、この2誌が特集を組むことによって爆発的な人気となり、ニュートラと呼ばれる一大ブームを巻き起こしました。

ニュートラはいわゆる「ニュー・トラディショナル」の略で、トップは3つボタンのブレザーにボタンダウンのシャツ、ボトムは膝下丈のタイトスカートにコインローファーといったスタイルが代表例ですね。そこにエルメスやグッチといった高級ブランドを組み合わせて、いかにも女性らしい「神戸のお嬢様風」のスタイルに仕上げるのです。

ニュートラから分岐したファッションとしては、これまた「横浜のお嬢様風」スタイルとなるハマトラ(横浜トラディショナル?)が流行しました。1975年創刊の「JJ」が特集を組んで生み出したとされており、基本的にはニュートラと変わりはないものの、ポロシャツやカーディガン、タータンチェックのスカートや紺のハイソックスを組み合わせることで、女子大生のキャンパスファッションとして定着しました。

流行の髪型については、当時のハリウッド女優ファラ・フォーセットに憧れた人が大半で、サーファーカットというハイレイヤースタイルが大人気でした。といっても当時はレイヤーと言わず「段を入れる、段をつける」と表現していたようですが。

最近はレイヤースタイルが人気のようですが、やっぱりファッションだけでなく髪型の流行もリバイバルがあるのでしょうね。

昭和レトロにあこがれて【音楽編】

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日本の世相を彩った昭和レトロな音楽の数々。現在のように「そんな曲全然知らないのに、なんで売れてるの?」なんて思わず首をかしげるような時代とは違って、当時は誰もが口ずさめる歌謡曲が目白押しだったことが特徴ですね。

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明石則実