室町時代日本の歴史

東山文化って何?銀閣寺?時代背景や中心人物などわかりやすく解説

直接見るならココ!東山文化を知ることができる人気スポットとは

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内乱が続く激動の時代に育まれた、滋味あふれる趣の東山文化。義政の庇護のもと、水墨画や大和絵、茶の湯、花道など様々な美術工芸品や芸術作品が世に送り出されましたが、今回は代表的な建造物と庭園として、「銀閣」と「龍安寺石庭」をご紹介したいと思います。

東山文化の中心地・慈照寺(銀閣)

東山文化に触れるなら、ここは外せないでしょう。外国人観光客にも人気が高い、京都の人気観光スポットです。

慈照寺(じしょうじ:京都府京都市左京区銀閣寺町)は、別名「銀閣寺」と呼ばれている、東山文化を代表する建造物・庭園。「古都京都の文化財」として、ユネスコ世界遺産にも登録されています。

築いたのは、かの足利義政です。

造営が始まったのは文明14年(1482年)。応仁の乱が鎮火して間もない頃でした。

もともとこの場所には、浄土寺と呼ばれる寺がありましたが、応仁の乱の戦火で焼失。義政は何もない場所に1から、自分好みの山荘の造営を築きます。

応仁の乱の影響で、都の人々の暮らしは逼迫。経済は破綻寸前でしたが、義政は東山山荘造営のための資金を捻出するべく臨時課税を慣行。莫大なお金をかけて質素な山荘の造営を楽しみます。

義政の心境も理解できないわけではありませんが……。

現存する銀閣の建物の形を見ると、祖父・足利義満が建てた金閣と形が似ていることに気づきます。実は「銀閣は足利義満を意識して建てたのではないか」と考えられているのです。

偉大なる祖父・義満にあやかって銀閣を建て、義満のような強い政治を行おうとしていたのかもしれない、との見方も。確かに、ただ都から逃れるだけなら、場所はほかにいくらでもあったはずです。

造営を初めて8年後の1490年、義政はこの世を去ります。都から遠く離れた東山の地でどのような思いを抱いていたか、今となっては知りようがありませんが、義政が再び政治の舞台に上がることはありませんでした。

義政を弔うため、東山山荘は禅宗に改宗。慈照寺として、現代に受け継がれています。

究極の美ここにあり「龍安寺方丈庭園」

東山文化の特徴を色濃くあらわしたものの一つに「枯山水(かれさんすい)」があります。

水を用いず、石や砂などを使って水のある風景を表現する庭園様式のこと。そんな枯山水の代表として名高いのが、龍安寺(りょうあんじ:京都府京都市右京区)の石庭です。

このお寺も「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に名を連ねています。

龍安寺は、応仁の乱の東軍のトップとしても知られる有力大名・細川勝元が1450年に創建した禅寺です。

その当時の建物は、残念ながら応仁の乱で焼けてしまいますが、勝元の息子たちの手によって再建。今では京都を代表する観光スポットとなっています。

1975年、英国のエリザベス女王が日本を公式訪問した際、龍安寺訪問を切望したというエピソードも。石庭を巡る女王の姿は海外メディアを通じて配信され、世界中の人々が知るところとなりました。

テレビ番組やガイドブックなどで、誰もが一度は目にしたであろう龍安寺の石庭。幅25m、奥行き10mほどの細長い庭に真っ白な砂が敷き詰められ、その上に大小さまざまな石がぽつり、ぽつり、合計15個、配置されています。

誰もが知る超有名な石庭ですが、造営された年代(1500年頃・室町末期と言われているが)、庭の作者や、どのような意図があって造作されたものなのか、はっきりしたことはわかっていないのだそうです。

質素という名の贅沢~足利義政が築いた東山文化

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以前、何かの本で、フランス女王マリー・アントワネットが、女王の仕事を離れて農村で質素な暮らしがしたいと言い出し、莫大なお金をかけて農村を作った、というようなエピソードを読んだ記憶があります。足利義政も似たような心境だったのかもしれません。権力者が質素な暮らしをするにはそれなりの環境が必要で、莫大なお金がかかるもの。税金を課せられる当時の人々からしたらたまったものではありません。でも、そういう権力者がいたからこそ生まれた文化芸術がたくさんあるのもまた事実。現代人が、そうして残された建物や庭園を見て文化の香りを楽しむ……これって罪な話なのかな、と、そんなことを感じてしまいました。

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