室町時代日本の歴史

『風姿花伝』を著し能を理論化した不世出の天才「世阿弥」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

世阿弥の生涯

image by PIXTA / 3915756

世阿弥は、動きの激しい室町時代の中では、比較的落ち着いていた義満・義持時代に活躍した能楽者です。世阿弥は幼いころに鮮烈なデビューを飾って以降、将軍足利義満の庇護で人気役者となりました。義満の晩年頃から、徐々に世阿弥に逆風が吹き始めます。状況が変わっても、世阿弥は能の道を追求しました。世阿弥は『風姿花伝』で能について徹底的に理論家します。晩年の世阿弥は、謎の京都追放を命じられるなど不運でした。世阿弥の生涯について振り返ります。

猿楽と田楽

辞書などで、「能」を調べると、能とは田楽や猿楽などの民間芸能を集大成した歌舞劇であると解説されています。では、田楽猿楽とはいったい何だったのでしょうか。

まず、田楽とは日本古来の芸能の一つ。最初は、田植えなどのときに農民が歌舞をする文字通りの田んぼの舞楽でした。平安時代後期になると、田楽は貴族文化に取り込まれます。

もう一つの猿楽とは、中国から伝来した散楽と日本古来の滑稽なしぐさや技が合わさってできた芸能です。軽口やしゃれなどを交えた言葉芸で、神楽の余興として発展しました。

猿楽は、比較的まじめで舞楽中心の「猿楽能」と、滑稽な部分が発展した狂言にわかれます。猿楽能(能)も狂言も、専門の芸人が生まれることで芸能として発展しました。猿楽能を発展させたのが大和猿楽の観阿弥世阿弥だったのです。

世阿弥の父、観阿弥

世阿弥の父である観阿弥は、伊賀国(現在の三重県北西部)に生まれました。観阿弥と世阿弥に共通する「阿弥」とは、時宗の号である「阿弥陀仏」の略称です。観阿弥は、大和四座とよばれた猿楽能を演じる一座の一員でした。大和四座は、興福寺や春日大社に猿楽能を奉納する一座です。

息子である世阿弥は、観阿弥は非常に目立つ大男でありながら、女性や少年僧といった華奢な役どころも器用にこなしたと評しました。役者としての観阿弥の魅力は、演じるキャラクターのふり幅が大きいことに由来したのかも知れせん。

1374年(または、1375年)、観阿弥は息子である世阿弥とともに京都新熊野神社で猿楽能を舞いました。このとき、観阿弥と世阿弥の能が足利義満の目を引きます。最高権力者である足利義満の庇護を得た観阿弥と世阿弥は一気にスターの座にのし上がりました。

しかし、観阿弥は1384年に駿河浅間神社での能を演じた後に急死してしまいます。

高い教養を身に着けていた世阿弥

観阿弥の死後、世阿弥が観世一座を率いることになりました。世阿弥は父である観阿弥とともに足利義満によって引き上げられた能楽者です。観阿弥がなくなる前、世阿弥は少年のころから義満の寵愛を受けていました。あまりに、義満が世阿弥をそばに置くので、公家から批判が出たほどです。

世阿弥の芸風は「幽玄」を重んじるものでした。幽玄とは、上品さや優美さ、趣深さなどを重視した価値観のこと。言葉で表現するのはなかなか難しいのですが、当時の貴族や武士に好まれた「雰囲気」だといえるかもしれません。

多くの猿楽者は、貴族や上級武士たちが持っているような高い教養を持ち合わせていませんでした。しかし、世阿弥は幼いころから足利義満の近くに侍っていたため、高い教養を身に着けたと考えられます。

世阿弥のライバル、道阿弥(犬王)と増阿弥

世阿弥は足利義満の寵愛を受け、まさに、時の人として芸能の世界に君臨しました。しかし、ライバルがまったくいないわけではありません。世阿弥のライバルとしてよく知られているのは道阿弥(犬王)増阿弥の二人でした。

道阿弥は、観阿弥と同じ時代の人で、近江の猿楽者です。義満は、晩年になると世阿弥よりも道阿弥をひいきにします。道阿弥の「道」は、義満の法号(僧侶としての名)である道義の一字から取られたもの。義満のひいき振りがうかがえますね。道阿弥は観阿弥を非常に尊敬していたようで、必ず、観阿弥の法要を欠かさなかったと言います。

義満の死後に世阿弥の前に立ちふさがったのは増阿弥でした。増阿弥は4代将軍足利義持の熱烈な支持を受けて台頭します。

世阿弥は、道阿弥や増阿弥とのライバル関係で自分の芸を磨くことになったでしょう。

世阿弥の後継者は誰? 観世元雅と音阿弥

義満によって引き立てられた世阿弥の観世座は、押しも押される名門名跡へと成長していました。世阿弥は二人の有力者から、一人を一座のトップである太夫に選ばなければなりません。

一人は、世阿弥の子である観世元雅。もう一人は、世阿弥の弟の子である音阿弥。どちらも、いずれ劣らぬ名人でした。世阿弥が後継者として選んだのは長男の元雅です。元雅は1422年に観世太夫の座を譲られました。

しかし、幸運は音阿弥のほうにやってきます。くじ引きよって将軍となった6代将軍足利義教が音阿弥の熱烈な支援者となったからでした。足利義教の機嫌を取りたい守護大名たちはこぞって音阿弥を呼びます。音阿弥は、一気に京都で一番の人気能楽者となりました。

義教は音阿弥をひいきするためか、露骨に世阿弥父子に圧力をかけます。そのせいで、仙洞御所での能を演能中止や、世阿弥が持っていた醍醐寺の楽頭職が取り上げられるなどの出来事が起きました。

次のページを読む
1 2 3
Share: