幕末日本の歴史江戸時代

戊辰戦争悲劇の舞台となった「二本松城」歴史・見どころを歴史系ライターが解説

JR東北本線二本松駅から歩いて15分ほどの場所に二本松城があります。城そのものが公園になっていますし、周辺にグラウンドや体育館などもあるため、市民憩いの場として親しまれています。しかし、かつての二本松城は中世から近世にかけて多くの戦いを経験し、歴史にその名をとどめているのです。戊辰戦争でも激しい戦いの舞台となりました。今回は二本松城にスポットを当て、その歴史と共に見どころや、周辺観光などもガイドできればと思います。ぜひ参考にしてみて下さいね。

二本松城の歴史【中世から江戸時代まで】

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現在も石垣が残り、再建された天守台や箕輪門などが往時の姿を印象付けている二本松城ですが、その歴史はたいへん古いものです。はるか南北朝時代まで遡りますが、まずは城の歴史から解説していきましょう。

激動の南北時代に生まれた二本松城

今から670年前の室町時代初期、当時は全国の武士たちが北朝方と南朝方に分かれて相争っていた時代です。北朝側の足利尊氏と、南朝側の後村上天皇が火花を散らして対峙し、戦乱の渦ははるか遠く奥州(現在の東北地方)にまで波及していました。

奥州の伊達氏、田村氏らは早くから南朝方に付いており、足利尊氏としては何としても彼らの勢いを止めねばなりません。そこで白羽の矢が立ったのが畠山国氏、吉良貞家の両名でした。彼らは奥州管領として下向し、南朝勢力と対峙したのです。そして畠山国氏の父、高国が最初に二本松の地に館を構え、そこが二本松城の前身となりました。

しかし北朝方も一枚岩ではありませんでした。幕府内の不協和音に端を発した【観応の擾乱】という内輪揉めに巻き込まれ、畠山国氏は同僚であるはずの吉良貞家に討たれてしまったのです。

国氏の遺児平石丸は二本松に逃れて雌伏の時を過ごし、元服して国詮と名乗ってからも勢力挽回のために戦い続けますが、どうにもうまくいきません。もはや昔日の勢いをなくした畠山氏は一国人として生き残りを図っていくことになるのです。

14世紀末~15世紀初めにかけて、国詮の嫡子満泰の代になってから二本松城は大きく改修され、本格的な中世山城として完成をみました。

衰退していく畠山氏と二本松城

現在こそ高石垣が見事な二本松城ですが、畠山氏が支配していた頃は土でできた城でした。深く空堀を掘り、土を積み上げて土塁とし、山に平坦な曲輪を造成して兵の駐屯地としていました。土の流出を防ぐための土留めの石積みはあったでしょうが、いかにも簡素な造りだったと思われます。また山麓にあった居館が城主の住まいでした。

さて、二本松の地に本格山城を築いた畠山満泰でしたが、昔日の栄光を取り戻すべく奮闘します。鎌倉府の命令に従って伊達持宗を攻めたり、永享の乱でも大いに活躍。その武勇は近隣に知れ渡ることとなり、奥州でも有数の有力国人となりました。

しかし満泰の死後に起こった跡目争いによって畠山氏は二つに分かれてしまい、再び衰退していくのです。さらに戦国時代に入ると伊達・葦名といった戦国大名に圧迫されてますます独立性が失われていく結果となりました。

伊達氏内部の相続争いとなった1542年の【天文の乱】では、当主の畠山義氏が伊達稙宗側に味方するも、家臣たちは逆に伊達晴宗側に付くという混沌ぶりを露呈し、畠山氏はますます弱体化していきました。

そこにはかつての奥州管領としての姿は微塵もありませんでした。

畠山氏の滅亡と、その後の二本松城

独立性が失われてしまった畠山氏にとって、力の強い戦国大名に従属しなければ、もはや生き残っていけない状況となっていました。

畠山義国・義継の代には会津の葦名氏の支配下に入り、ようやくその命脈を保っているという状況でした。近隣の武将大内定綱とも姻戚関係にありましたが、そのことが畠山氏の命運を決することになるのです。

1584年、伊達氏の支配下にあった大内定綱は突如として伊達政宗に謀反を起こし、二本松へ逃げてきました。怒った政宗は畠山義継に対しても攻撃の矛先を向けてきたのでした。抵抗しても無理だと悟った義継は降伏しますが、その条件は畠山氏の所領をほぼ没収するという到底受け入れらない過酷なものだったのです。

切羽詰まった義継は、一計を案じて政宗の父輝宗の元へ赴き、なんと無理やり輝宗を拉致して二本松へ連れ去ろうとしたのでした。それを追跡した政宗は、父もろとも鉄砲を一斉に乱射。義継は討ち取られてしまいました。

義継亡きあと、遺児の国王丸を盛り立てて畠山氏はなおも抗戦しますが、人取橋の戦いにおいて反伊達連合軍が敗退すると、後ろ盾を失った二本松城も落城を余儀なくされてしまいました。国王丸は会津へ逃れ、そこで亡くなっています。そして二本松城は伊達の属城となったのです。

二本松城の歴史【江戸時代から近世まで】

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畠山氏の滅亡後、二本松城は幾たびか城主の変遷を経験します。私たちが今日見る近世城郭の姿はその頃に出来上がっていったといえるでしょう。江戸時代以降の二本松城の歴史を見ていきましょう。

次々と入れ替わった二本松城主たち

伊達氏の支配下に入った二本松城には、片倉景綱伊達成実といった政宗の腹心たちが城代として入城しています。しかし豊臣秀吉による大名統制はすでに始まっていました。1590年の小田原の役に続く奥州仕置によって伊達氏が転封されると、新たにやって来たのが蒲生氏郷でした。

氏郷は二本松城に蒲生郷成を置いて城主とし、北の伊達氏や関東の徳川氏に備えさせました。しかし蒲生氏の時代も長くは続きません。当主氏郷が亡くなると、年若い嫡子の秀行では家臣の統制ができず、宇都宮へ再び転封させられたのです。

1598年、越後から会津へ移封されてきた上杉氏の支配下に入ると、二本松城は下条忠親が城代となって治めるところとなりました。

しかしまたしても上杉時代も長くは続きませんでした。関ヶ原合戦の戦後処理で上杉氏は米沢へ移封となり、再び蒲生秀行が入封してきたのです。それから20数年ほど蒲生氏の支配が続きましたが、時の藩主蒲生忠郷が嗣子のないまま死去。今度は加藤嘉明が伊予から入封してきました。とにかく頻繁に城主が交代していたのがこの時代なのですね。

1643年、次代の加藤明成の頃に会津騒動が起こります。これが原因で加藤氏は改易の憂き目に遭い、代わって近隣の白河藩から丹羽光重が二本松へ入封してきました。この後は藩主が入れ替わることなく幕末まで続き、この頃に三重の天守が築かれるなど大きな改修を受けたのでした。

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