教養歴史

長宗我部元親はどうやって軟弱な「姫若子」から勇猛な「鬼若子」となったのか

戦国時代に土佐(高知県)を統一し、四国をほぼ手中に収めた戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)「姫和子(ひめわこ)」と呼ばれ、先行き不安とみなされていた彼が、どうして土佐統一の偉業を成し遂げることができたのでしょうか。長宗我部氏の全盛を築き、晩年には暗君へと転じてしまった彼の人生を見ていきたいと思います。

「姫若子」が「鬼若子」へと開眼

image by PIXTA / 53628330

土佐で勢いを取り戻してきた有力武将・長宗我部氏に生まれた長宗我部元親は、少年時代はおとなしくぼんやりとした、なんとも頼りない少年で、「姫若子」と呼ばれるほどでした。しかし、初陣に臨んだ彼は、誰もが予想だにしなかった大活躍を見せ、一気に武将として脱皮を遂げることになります。周囲を驚かせた彼の成長ストーリーを見ていきましょう。

見た目はいいがおとなしすぎて「姫若子」と呼ばれた少年時代

天文8(1539)年、長宗我部元親は土佐の戦国武将・長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)の息子として生まれました。

父・国親は、当時落ちぶれていた長宗我部氏の勢いを取り戻した傑物で、土佐統一の野望を抱く気概のある人物でした。その跡を継ぐ元親も、そんな父親の気質を色濃く受け継いでいてくれることが皆の希望でしたが、残念ながら、少年時代の元親はその期待を裏切るような柔和な少年だったそうです。

元親は、色白で背が高く、眉目秀麗な少年でしたが、いかんせんおとなしい性格で、父・国親はそれをいつも心配していました。おとなしいというよりもぼんやりしているとも言われ、「うつけ(まぬけ、馬鹿者)なのではないか」と陰口をたたかれるほどだったのです。そのため、ついたあだ名は「姫若子」お姫様のような若君という意味でした。

初陣は土佐の命運を決する大きな戦

先行き不安な姫若子だったせいか、元親の初陣は戦国武将としては非常に遅く、永禄3(1560)年、彼が22歳になってからのことでした。早いと10代前半で初陣を飾りますから、いかに遅かったかがわかりますよね。

元親の初陣となった「長浜の戦い」は、本山(もとやま)氏と土佐の覇権を巡る戦いでした。また、本山氏はかつて元親の祖父である長宗我部兼序(ちょうそかべかねつぐ)を攻め滅ぼした仇敵でもあったのです。

とはいえ、兵力差は大きく、本山氏は2倍以上の兵力を有しており、なかなか厳しい戦になることは予想されていました。

初陣でまさかの大活躍!評価が一変

合戦に際し、元親は家臣に「槍はどう使うのか、また、大将はどう振る舞うべきか」と尋ねたそうです。家臣は「まさかこの時になってまで槍の使い方を教えなくてはならないとは…」と思ったようですが、「槍は敵の目と鼻を狙い、大将は臆することなく、かといって先に駆けていかずにいるものです」と答えました。

そして合戦の火蓋が切って落とされたのですが、ここで元親が豹変します。

いきなり槍を構えて50騎の兵を率いて敵に突撃し、初陣ながら2つの首級を挙げるという殊勲を立てたのです。また、この隊だけで70余りの首級を奪い取りました。

元親の快進撃はそれだけにとどまらず、家臣の制止を振り切り、勢いに乗じて敵方の城まで奪ってしまったというのですから、家臣たちの唖然とするさまが目に浮かぶようですよね。

そしてこれ以来、皆は元親を「姫若子」と呼ぶことはなくなり、「鬼若子」と呼ぶようになりました。

快進撃と悲願・土佐統一

image by PIXTA / 14614719

父の跡を継いだ元親は、今までとは打って変わって精力的に動き出します。周辺勢力を次々と制圧し、養子縁組によって他家をほぼ乗っ取るなど、その策謀は見事なものでした。そして彼はついに、従属していた一条氏からの独立を図り、一条氏を撃破し、先祖からの悲願でもあった土佐統一を果たすことになるのです。

周辺勢力を次々と制圧

元親が変貌を遂げた長浜の戦いが終わってすぐ、父・国親が亡くなり、元親はついに家督を継ぐことになりました。しかし、以前のように家臣たちは不安を抱いてはいませんでした。おそらく、亡くなった父もそうだったでしょう。何せ、元親は今や「鬼若子」。頼もしい若武者へと成長を遂げていたのです。

まず元親は、目下最大の障壁となっている本山氏との決戦に臨みます。数年間を擁しましたが、本山氏を制圧すると、彼は土佐中部を手中に収めることに成功しました。

すでにこの時、元親は名君として成長していたこと証明しています。実は、元親の姉は本山氏に嫁いでおり、男子をもうけていました。この男子・本山親茂(もとやまちかしげ)は、元親の甥でありながらも、元親の制圧戦に徹底的に抵抗したのです。

大きな損害を与えられた元親ですが、勇猛な甥を赦し、自らの長男・信親(のぶちか)の家老として迎えました。親茂は信親によく仕え、討死まで共にしたそうです。

また、本山氏と時期を同じくして、同じ土佐の安芸国虎(あきくにとら)も破り、土佐東部も手中におさめています。

弟や息子を養子入りさせ、周辺勢力を長宗我部氏の傘下に置く

元親は戦によって周辺武将を制圧していきましたが、同時に、縁戚関係を結ぶことで体よく乗っ取りを進めていきました。若い頃は弟たちを、結婚して男子が生まれると彼らを養子入りさせたのです。これは「三本の矢」でも有名な毛利元就(もうりもとなり)も用いた手で、元就の場合は息子たちを養子入りさせ、毛利氏への強力な援軍とさせました。

このやり方と同様、元親は弟・親貞(ちかさだ)は吉良(きら)氏へやり、もう一人の弟・親泰(ちかやす)は香宗我部(こうそかべ)氏に養子縁組させました。

また、二男・親和(ちかかず)は香川氏に、三男・親忠(ちかただ)は津野(つの)氏へと、着々と周辺に縁戚を増やして勢力を拡大していったのです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: