ヨーロッパの歴史

国家が最も栄えた時期「黄金時代」とは?栄光の歴史・その後は?

「黄金時代」って、なかなか美しい響きですね。まるで光り輝くような栄光にみちた時代…例えば読売ジャイアンツが無敵の状況が続いたV9時代を「黄金時代」とか「黄金期」とも呼びますし、かつての高度成長期は「経済の黄金時代」とも表現されます。いわゆる「全盛期」ということを意味しますね。そこで今回は、歴史に名を遺す国家がどのように黄金期を迎えたのか?について考察していきたいと思います。黄金時代を迎えた理由や、どんな人物が活躍したのか?またその後どうなったのか?など詳しくスポットを当てていきましょう。

世界史に登場する大帝国の黄金期について

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世界史上、多くの大帝国が建設され繁栄を謳歌したのは、やはりヨーロッパが中心だといえるでしょう。それこそ枚挙に暇がないほどです。いくつかの帝国をご紹介していきますね。

花開くヘレニズム文化【マケドニア王国】

マケドニア王国は紀元前700年頃に現在のギリシャ北方に築かれた国家でしたが、王位継承問題や諸外国からの攻撃などにより、国家としては非常に不安定な存在でした。

紀元前359年に即位したフィリッポス2世は英邁な人物で、国政改革と軍事力強化を推進し、瞬く間に周辺諸国を従わせるほどの強国に成長させました。やがてギリシャ本土へ侵攻すると、スパルタを除く全ギリシャを支配下に治め、東方のペルシアにまで軍を進めようとしたのです。

ところがいよいよペルシアへ向かおうとした紀元前336年、あえなく暗殺されてしまいます。念願のペルシア遠征は潰えたかに見えましたが、その志を継いだのは息子のアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王とも)でした。彼は即位して2年後にはさっそくペルシアへと軍を向け、イッソスの戦いで大勝利を収めました。

さらに南のエジプト方面へ遠征して、エジプトをペルシャの支配下から解放し、アレクサンドロス3世はファラオとして認められました。また、この時建設した彼の名を冠した大都市アレクサンドリアは現在でもエジプト第2の都市となっています。

紀元前331年、ガウガメラの戦いでペルシャ王ダレイオス3世の軍を打ち破り、ペルシャは完全に崩壊しました。この後も現在のイランやウズベキスタンあたりにまで軍を進めて支配下に治め、これでマケドニア王国は西はギリシャ、東はインダス川にも及ぶ大帝国となり、ギリシャ文化とオリエント文化を融合させたヘレニズム文化が誕生したのです。

このヘレニズム文化は現在でもミロのヴィーナスラオコーンなどの石像彫刻として現代に受け継がれていますね。アレクサンドロス3世の造ったアレクサンドリアは名実ともに経済・文化・軍事の中心地となりました。

しかし稀代の英雄アレクサンドロス3世が熱病によって32歳の若さで亡くなると、後継者を指名しなかったために跡目争いが起こり、その後大帝国はマケドニア・シリア・エジプトの3つに分割されることになりました。

やがて地中海の覇権を握ろうと躍進するローマ帝国の侵攻を受け、ローマの属州となる運命となったのです。

地中海世界を支配した大帝国【ローマ帝国】

ローマ帝国の歴史は形式上でいえば、紀元前8世紀~1453年のビザンツ帝国滅亡に至るまでの2千年以上にも及ぶ長いものです。その中で幾度かの黄金時代があり、衰退期もありました。しかしローマ帝国がもっとも輝いていた時代があるとすれば、最大版図を獲得した五賢帝の頃(1世紀後期~2世紀初め)ではないでしょうか。

共和政から帝政へと移行したローマは、初代皇帝アウグストゥスの時代にはガリア地方(現在のドイツやフランスなど)、イスパニア(現在のスペインやポルトガル)、アナトリア半島(現在のトルコなど)、北アフリカ沿岸地帯などの地中海沿岸を支配下に治めていました。

五賢帝の2代目にあたるトラヤヌスは初めての属州出身の皇帝となり、優れた政治手腕や人望のあった人物だとされていますね。

101年、ローマの保護国だったダキア(現在のルーマニア)が反旗を翻し、トラヤヌスは自ら軍を率いて鎮圧しました。そしてその地をローマの属州としたのです。現在もローマに残る「トラヤヌスの記念柱」は、その際の戦勝を記念したもの。高さ30メートルもある巨大な円柱ですね。

さらに114年には東方遠征に出発。115年に現在のイラクにあたるクテシフォンを占領し、その勢いのままにメソポタミア地方へ進出してペルシャ湾岸に達しました。このトラヤヌスの時代にローマ帝国は最大の領土を手に入れることになったのです。

しかし、トラヤヌスの跡を継いだ皇帝ハドリアヌスは、一転して外征を中止し、広大なローマ帝国領土の維持に尽力しました。その痕跡は現在もイングランドに残る「ハドリアヌスの長城」として残っていますね。延長118キロにも及ぶ防壁は、領土の維持がいかに難しかったかを物語っているようです。

五賢帝の時代ののち、ローマ帝国は属州の反乱や相次ぐ皇帝の暗殺、ゲルマン人の侵入などによって徐々にその政治形態を変えていきます。帝国の維持のためには専制君主の存在が不可欠になってきたからですね。またキリスト教を公認し、時代の変化に伴って帝国もまたフレキシブルに姿を変えることになりました。

395年に東ローマ帝国西ローマ帝国に分裂するに及んで、統一国家としてのローマは姿を消すことになりました。476年には早くも西ローマ帝国が滅亡し、東ローマ帝国もまた1453年まで存続するものの、イスラム勢力からの圧迫を受け続けることになるのです。

ドイツを中心とした連合国家【神聖ローマ帝国】

「帝国」と名が付いていても、国王を頂点にする単独国家ではありません。神聖ローマ帝国はいわば複数の単独国家が寄り集まった連合政権のようなものでした。ましてや先述のローマ帝国とも関係はありません。それゆえ代々の皇帝位は諸侯の選挙によって選ばれることになっていたのです。(選帝侯)

962年、フランク王国のオットー1世がマジャール人たちの攻撃を撃退したことから、ローマ教皇から戴冠を受け、神聖ローマ帝国がスタートするわけですが、その全盛期は意外に遅く16世紀まで待たねばなりません。

1438年にハプスブルク家から初めてアルブレヒト2世が神聖ローマ皇帝に選出されました。アルブレヒト2世は赤痢によって亡くなりますが、跡を継いだのはまたしてもハプスブルク家のフリードリヒ3世となりました。この頃、東のオスマン帝国の力が強く、財力も軍事力もあるハプスブルク家の力を諸侯があてにしたからです。

これ以降、ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝の位を独占することになりますが、もはやローマ教皇から戴冠されるような栄誉あるものではなく、実際には有名無実なものとなっていました。神聖ローマ帝国がハプスブルク王国と揶揄されるのもそういったところに理由があるのです。

この頃には正式な国号も「ドイツ国民のための神聖ローマ帝国」となっていますね。

フリードリヒ3世とその子マクシミリアン1世は、巧みな婚姻政策で勢力と領土を広げ、フランス東部やスペインなどを次々に支配下に置いていきました。

1519年に皇帝に就いたカール5世(マクシミリアン1世の孫)の頃に、帝国は黄金時代を迎えました。ヨーロッパの大部分と海外領土も含まれる広大な領土を得るに至ったのです。まさにハプスブルク家の栄華が極まっていた時代でもありました。

しかし、その栄華も長くは続きません。オスマン帝国から圧迫や、宗教改革に端を発した旧教徒と新教徒の争いに忙殺され、広大な領土維持の困難さを痛感したカール5世は退位します。

そして神聖ローマ帝国の領土は分割統治されることになりました。息子フェリペ2世が統治するスペイン・ハプスブルク家、そして弟フェルディナント1世が統治するオーストリア・ハプスブルク家ですね。

17世紀に入ると神聖ローマ帝国傘下の諸侯たちの独立傾向が強くなり、三十年戦争の講和条約でもあるウェストファリア条約が締結されてドイツ諸侯の主権が認められ、帝国は実質上解体されてしまうことになったのです。

その後もハプスブルク家は継承されていきますが、神聖ローマ帝国には昔日の面影はなく、最終的にナポレオンの侵攻を受けたことをきっかけにして消滅してしまいました。

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