近代日本に言文一致体が求められた理由
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明治時代。日本は文明開化により様変わりしましたが、同時に変化を迫られたのが日本語です。士農工商、男女、地方地域によってまったく違う言語が飛び交っていた日本。話し言葉は標準語に統一される方向に向かっていましたが、さて書き言葉は?そもそもなぜ新しい文体を模索する必要なんかあったのでしょうか。そして二葉亭四迷とはどんな人物であり、言文一致体誕生の秘密とは何だったのでしょう?
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変革を求められた日本の「小説」
明治より前の日本で小説というと、『源氏物語』の哀れ深い王朝時代の小説や、『南総里見八犬伝』『東海道中膝栗毛』などの草紙もの。この時代で扱われる文章は現代の私たちの言うところの「古文」です。例をピックアップしてみましょう。
清げなる大人二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。中に十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなる容貌なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。――『源氏物語 若紫』
主從は今更に、姫の自殺を禁めあへず、我れにもあらで蒼天を、うち仰ぎつゝ目も黒白に、あれよあれよ、と見る程に、颯と音し來る山おろしの風のまにまに八つの靈光は、八方に散り失せて、跡は東の山の端に、夕月のみぞさし昇る。――『南総里見八犬伝』
江戸時代まで、話し言葉と書き言葉は分離された言語でした。これがなぜ変革される必要があったのでしょうか?理由はシンプルで、表現上の関係です。時代は写実主義が大フィーバーの19世紀後半。
架空のファンタジー冒険活劇や恋愛情緒、コメディを描くものから、現実を舞台に人間や社会を描く文章が必要でした。そのために「いとあはれ、あなをかし」というような文章だと興ざめですよね?日本は国際社会と文化面でも戦っていく必要があったのです。新時代、文学者たちもさらに自由な表現を求めていたのでした。
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長谷川二葉亭四迷、ロシア語から言文一致体を生み出す
長谷川辰之助――後の二葉亭四迷は江戸時代の斜陽1864(元治元)年の江戸市ヶ谷。尾張藩で鷹狩りの供回り役をつとめる家柄、立派な武士でした。辰之助、のちの二葉亭四迷の母は由緒正しい武士の家柄と血筋の人間が、小説という「軟弱な芸」に没頭することに終生ぐちをこぼしつづけたといいます。
漢学を学んだり、樺太千島交換条約にともなうロシアの動きへの危機感から陸軍士官学校を受験したり、さまざまな変遷の後彼は東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学しました。この時ロシア文学に深く心酔するようになります。しかし学校内の事情に反感を抱き、退学。その後1886(明治29)年、人生を変える師・坪内逍遥のもとに通うようになります。さて二葉亭四迷は言文一致体をどのように生み出したのでしょう?
答えは、翻訳です。長谷川二葉亭は、まずロシア語の小説を日本語に翻訳。ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を訳す過程でその精神を汲み取り、近代的かつ西洋的な心情とリズムを日本語に落とし込んでいったのです。異なる言語を自国語に訳す過程で新しい文体を作る作業は、かの村上春樹も行っています。言語に長けた長谷川二葉亭四迷は離れ業に等しい方法で、話し言葉と書き言葉の一致した文章「言文一致体」を創造したのです。
改革の書「浮雲」の出版
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『浮雲』――日本文壇に衝撃を与え歴史を変えた、言文一致体の小説が発表されたのは1887(明治20)年。東京電燈会社が市内配電を開始し、東京の都に電気灯の光がともるようになったころです。長谷川辰之助が二葉亭四迷(ふたばていしめい)に変身した処女作。作者の二葉亭はこの作品に納得がいかなかったといいますが……。『浮雲』のあらすじにも触れつつ紹介していきましょう。
師匠の看板を借りて!?『浮雲』の作者は坪内逍遥?
大偉業を成し遂げた長谷川辰之助。しかしペーペーの新人無名小説家の文章なんか誰が読むでしょう?考えた末に彼は妙案を思いつきました。大先生・坪内逍遥のネームバリューを使うことにしたのです。『浮雲』は坪内雄蔵(坪内逍遥の実名)の名前で売り出されます。坪内逍遥はすでに『当世書生気質』『小説神髄』で名声を得ていたのです。
この革命的作品を1人でも多くの人の手に渡らせるための苦肉の策でした。このことを長谷川辰之助は一生後悔し続けます。彼は『浮雲』の「はしがき」で自分のことを「二葉亭四迷」と名乗りました。「くたばってしめえ」のもじりです。
この作戦のおかげなのかはっきりとした判断は難しいのですが、いずれにせよ『浮雲』は日本の小説を変えました。それまでに山田美妙の「です・ます」調や、樋口一葉の美しい雅文体など日本語の文体は様々に模索されてきましたが、ある種の完成形にようやく到達したのです。しかしこの後20年近く、二葉亭四迷は小説執筆から離れることになります。未完に終わった『浮雲』の出来に満足できなかったのでした。
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ところで『浮雲』ってどんな話?
さて日本初の言文一致体小説にして、二葉亭四迷の処女作『浮雲』ってどんな物語なのでしょう?一言で言うと、三角関係のウダウダ恋物語です。主人公の内海文三は何をやったわけでもないのに運悪く役所を辞めさせられてしまうことになりました。しかしプライドの高さから上司に嘆願することもできず。婚約者格だったお勢、そしてその母親は実務能力のない文三に愛想を尽かしはじめます。そこにあらわれたのは本田昇。本田は愛想よく要領よく出世を重ね、お勢親子は彼の方を選ぶことになりました。文三が悶々とする様が描かれます。
この「知識階級の若者らの三角関係」「有能な男と無能な男」の構図は明治期の日本文学のある種の伝統となりました。そもそも『浮雲』自体が坪内逍遥の『当世書生気質』をリスペクトして書かれたものですが、この他にも尾崎紅葉『金色夜叉』夏目漱石『三四郎』『こころ』などにこの系譜が受け継がれました。
「恋」というものを写実的に、現実の社会を舞台に描いたこの作品。実際に読むとかなりグダグダと続く小説で、面白さという面では正直イマイチです。二葉亭四迷自身も小説としての『浮雲』の出来には終生不満を抱き続けます。翻案はあったものの二葉亭四迷は『浮雲』を未完で終わらせることになってしまいました。しかし話し言葉と書き言葉がシンクロした言文一致体が誕生した、日本文学の記念碑的作品です。