国家が最も栄えた時期「黄金時代」とは?栄光の歴史・その後は?
公然と皇室に歯向かった男、北条義時【鎌倉幕府】
2022年放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公が北条義時です。鎌倉幕府が創設された後、天皇に代わって行政・軍事を司る役目が征夷大将軍となったわけですが、初代の源頼朝が亡くなり、頼家、実朝と次々に源氏将軍が暗殺されるに及び、北条氏が政治の実権を握ることになりました。
とはいえ将軍がいなければ幕府が存在している意味はありません。北条氏2代目執権の義時は、後鳥羽上皇の親王を将軍として鎌倉へ招聘しようとしました。ところが後鳥羽上皇は大の北条嫌い。到底飲めない条件を出して義時を揺さぶります。
しかしこの将軍継嗣問題が発端となって、鎌倉幕府と京都の朝廷は一触即発の状況となりました。義時が八方ふさがりとみた後鳥羽上皇は、1221年に義時追討の宣旨を出します。全国の武士たちの存在価値は朝廷があってこそのもの。味方する武士は多いだろうと踏んでのことでした。
ところが案に相違して、東国を中心としたほとんどの御家人たちは鎌倉方に味方したのです。すでに全国に地頭や守護を置いたことで実利をもって武士たちを繋ぎ止め、「今こそ鎌倉に対する忠義を示せ」と発奮させたのでした。
この承久の乱と呼ばれた内乱で朝廷側は大敗北を喫し、後鳥羽上皇たちは各地へ配流される結果に終わりました。まさに北条氏に敵対する勢力がいなくなった瞬間でした。
この後、朝廷の動きを監視するために六波羅探題という出先機関を置いた鎌倉幕府は、全国に支配圏を広げて名実ともに黄金時代を築くことになりました。
こちらの記事もおすすめ
日本最初の幕府【鎌倉幕府】ってどんな幕府だった?仕組みなどを解説 – Rinto~凛と~
有力守護大名を手玉に取った日本国王【室町幕府】
足利氏が征夷大将軍を務めた室町時代。南北朝の争いから始まって戦国時代へと突入していく、まさに内乱の時代でした。将軍の権力が弱いために有力守護大名たちの台頭を招き、日本に未曽有の災厄を招いたことでも知られています。
そのような中にあって実力を持った大名たちを手玉に取り、権力を一極集中させ、明(中国)から「日本国王」と呼ばれた将軍がいました。室町幕府3代将軍足利義満です。
1367年に将軍に就任するや、有力大名に対抗するために軍事力を強化したり、様々な政治改革を断行しました。1392年には明徳の和約と呼ばれる南北朝の合一を果たし、長らく続いた内乱状態を終息させたのです。
また将軍権力を軽んじる土岐氏を討伐したり、力を持ち過ぎた山名氏や大内氏を挑発して反乱を起こさせて自滅に追い込むなど、見せしめと統制による絶妙なパワーバランスで権力を強化しました。この頃が室町幕府の黄金時代だといえるでしょうか。
ただし義満がいかに天才的なスキルや処世術を持っていようとも、それは彼個人だけのこと。決して幕府のシステムが盤石だったから世が治まっていたわけではありません。彼の死とともに急速に幕府は瓦解の方向へと向かうのです。
義満と同じ手法で有力大名を統制しようとした6代将軍義教は臣下に暗殺され、8代将軍義政もまた応仁の乱という大乱を収めることはできませんでした。それ以降の将軍たちもまた有力大名たちによって幕政を牛耳られ、操り人形と化していくのです。
第15代まで足利氏によって将軍が引き継がれていくものの、そこに将軍としてあるべき姿はありませんでした。
こちらの記事もおすすめ
「室町幕府」を読み解く!15人の足利将軍から見る日本の歴史 – Rinto~凛と~