イタリアの統一
19世紀はじめ、ヨーロッパはナポレオン戦争により大きく混乱します。ナポレオン戦争終結後に開かれたウィーン会議で、イタリアは9カ国に再編成されました。ナポリにはブルボン家が復活し、ローマ教皇領も復活します。その一方、ヴェネツィアやロンバルディアなどはオーストリアの支配下に置かれました。
1820年から1850年にかけて、カルボナリ党や青年イタリアがイタリア統一を目指しましたが失敗に終わります。
1852年、サルデーニャ王国の首相に就任したカヴールは、互いにけん制しあうオーストリアとフランスの対立を利用。フランスと手を組むことでオーストリアを北イタリアから追い出します。
さらに、ガリバルディ率いる義勇軍「千人(赤シャツ)隊」は両シチリア王国を占領。サルデーニャ王に献上します。1870年に普仏戦争でフランスが混乱するスキを突いてローマ教皇領を併合。イタリア統一をほぼ達成しました。
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「未回収のイタリア」
未回収のイタリアとは、イタリア王国成立後もオーストリア帝国の領土として残されたイタリア人居住地域のことです。イタリアは「未回収のイタリア」の回収を大きな目標としました。
1882年、イタリアは未回収のイタリアの問題を棚上げしてドイツ・オーストリアと三国同盟を結成します。しかし、第一次世界大戦がはじまると、イタリアはオーストリアから未回収のイタリアを取り戻すチャンスと考え、三国同盟離脱。オーストリアと戦いました。
第一次世界大戦でイタリアは戦勝国となり、イタリアはオーストリアから「未回収のイタリア」である南チロルとトリエステを割譲されます。
しかし、第一次世界大戦勝利の代償としては期待していたほどではなかったため、強硬派はトリエステに隣接するフィウメを獲得するべきだと主張しました。
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ムッソリーニの独裁政治
1921年、イタリアの政治家ムッソリーニはファシスト党を結成します。翌年、ファシスト党員4万人が黒シャツ姿で行軍するローマ進軍が実行されました。ファシスト党の動向を警戒したイタリア国王はムッソリーニに組閣を命じます。
政権を奪取したムッソリーニはユーゴスラヴィア領のフィウメを併合。1926年にはアルバニアを保護国化します。
1929年の世界恐慌ではイタリア経済も大きな打撃を受けました。事態を打開するため、ムッソリーニはエチオピアに侵攻。併合を強行します。これに対し、国際連盟はイタリアに経済制裁を科しますが、効果は限定的です。
1936年、ムッソリーニはドイツで政権を取ったヒトラーと接近。ベルリン=ローマ枢軸を成立させました。1940年6月、ムッソリーニは枢軸国側として第二次世界大戦に参戦します。
ところが、戦局は徐々に枢軸国に不利になっていきました。1943年、連合軍がイタリア領のシチリア島に上陸すると、ムッソリーニは失脚。1945年4月に捕らえられ銃殺されました。
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戦後に誕生したイタリア共和国はEUの一員となった
第二次世界大戦後、イタリアではサヴォイア王家が国民投票によって廃されイタリアは共和国となりました。イタリアは1957年のローマ条約以来、ヨーロッパ統合に積極的にかかわります。1967年にできたヨーロッパ共同体(EC)では創設6カ国の一つとして名を連ねました。現在、イタリアはEUの中心国の一つとして観光客などに大人気の国であり続けていますね。
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