日本の歴史江戸時代

鍋島直正の藩政改革により幕末屈指の雄藩となった「肥前藩」を元予備校講師がわかりやすく解説

均田制の実施と収入増加策

肥前藩では、有田などで盛んに磁器生産を行っていました。磁器の生産・販売で豊かになった商人たちは、中小農民から土地を買収し所有地を拡大します。土地を売った農民達は小作人となりました。

直正は財政再建をするためには、農業の再生が不可欠と考えます。そこで、有田周辺で商人たちが買い集めた土地を一度藩が収公(とりあげ)しました。その上で、一部の土地のみ地主である商人たちに返し、他の土地を小作人たちに分け与える均田制を実行します。土地をもらった農民たちは藩に税を納めさせました。

のちに、直正は肥前藩の大半の地域で均田制を実施します。それだけではなく、直正は磁器や茶、石炭の生産に力を入れ、産業振興により藩財政を豊かにしました

藩校「弘道館」

直正の二代前の藩主である鍋島治茂は、儒学者の古賀精里に命じ藩校の講道館を作らせました。治茂は、熊本藩の時習館をモデルに藩の役に立つ人材を育成しようとします。のちに弘道館の教頭格となる石井鶴山は、全国各地を訪れ藩校や藩の政治を観察しました。

1806年、古賀精里の子である古賀穀堂は藩に意見書を提出。その中で穀道は教育予算の削減に反対し、削減どころか予算を3倍にすべきだと訴えました。弘道館出身の有能な人材は幕末から明治維新期に大いに活躍します。

新政府に入った者だけでも、副島種臣大木喬任、大隈重信佐野常民江藤新平島義勇など逸材ぞろいですね。中でも大隈重信は参議にまで出世。明治十四年の政変で下野したのちは立憲改進党を率いて自由民権運動の一角を担いました。のち、大隈重信は二度にわたって総理大臣を務めます。

西洋技術の導入

均田制や特産品の販売奨励などで財政危機を脱した直正は、西洋技術を積極的に導入します。導入した技術をもとに、肥前藩は反射炉の製造に成功しました。

反射炉をつくることで、より精錬度の高い鋳鉄を鋳造することが可能となります。その結果、アームストロング砲など、最新式の大砲を自前で作ることができるようになりました。また、三重津に海軍所を設置し、蒸気船の完成にこぎつけます。

さらに、オランダから最先端の牛痘を導入し、不治の病とされていた恐ろしい感染症の天然痘の撲滅も図りました

ペリー来航の際、幕府を主導していた老中の阿部正弘は、品川に砲台を設置する台場などをつくりますが、この時、直正は肥前藩の技術を幕府に提供しています。直正の改革により、肥前藩は全国屈指の強力な藩となりました。

維新期とその後の肥前藩(佐賀県)

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提携していた阿部正弘の死後、鍋島直正は幕末の政局で積極的に動こうとはしませんでした。戊辰戦争がはじまり、薩長の優位が明白になると肥前藩は新政府に従い旧幕府勢力と戦います。戊辰戦争後、肥前藩は北海道開拓に取り組みました。このとき活躍したのが島義勇です。直正の死後、新政府の政策に不満を持った旧肥前藩士は江藤新平や島義勇をリーダーとして佐賀の乱をおこしました。

戊辰戦争への参戦

1860年代、日本の政治は幕府を支える佐幕藩と、尊王攘夷を唱え倒幕を主張する勤王藩とに分かれつつありました。佐幕藩の代表が会津藩や桑名藩です。

対して、勤王藩の代表が長州藩でした。薩摩藩は、藩の指導者である島津久光が公武合体を支持していたため、会津藩などと行動を共にします。しかし、西郷隆盛大久保利通といった藩内の下級藩士が藩政の実権を握ると、薩長同盟を結び倒幕の姿勢へと転換しました。

戊辰戦争に参戦した肥前藩は、奥羽越列藩同盟の中でも近代化が進んだ庄内藩の軍勢と激突します。両軍は雄物川流域で激しく戦いました。新式銃はもとより、アームストロング砲も投入されるなど、庄内藩と肥前藩の戦いは近代戦の様相すら呈します。庄内藩との戦いは、戊辰戦争の終盤とはいえ、肥前藩の軍事力を遺憾なく見せつけた戦いでした。

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