日本の歴史江戸時代

鍋島直正の藩政改革により幕末屈指の雄藩となった「肥前藩」を元予備校講師がわかりやすく解説

北海道開拓への関与

鍋島直正は北海道開拓や北辺防備に強い関心を持っていました。外国人との交渉窓口である長崎の警備を請け負っていた肥前藩としては、長崎同様、外国との窓口にあたる蝦夷地について無関心でいられなかったのかもしれません。

まだ江戸幕府が存続していた1856年、直正は肥前藩士の島義勇を蝦夷地に派遣します。島は四か月近くをかえて蝦夷地や樺太を調査しました。

明治維新後、鍋島直正は初代開拓使長官に任命され北海道開拓を任されます。病身の直正にかわって蝦夷地に乗り込んだのが島でした。直正は直々に島の家を訪問し、酒を酌み交わしつつ激励したといいます。

島の北海道赴任はわずか4か月に過ぎませんでしたが、その短い期間に島は開拓の本拠地として札幌の中心部を整備しました。

佐賀の乱

1860年代後半から1870年代前半にかけて、明治政府は次々と新しい政策を打ち出しました。その中には、士族たちの特権を奪うものも含まれています。例えば、軍人や警察官以外が刀を持つことを禁じる廃刀令。士族の経済的基盤を奪う秩禄奉還の法。これらは士族から武士の誇りを奪い、経済的に追い詰めるという側面がありました。

1873年、西郷隆盛をはじめとする高官たちが征韓論をめぐって他の首脳たちと対立。征韓派の高官が一斉に下野する明治六年の政変が起きます。この時、佐賀に帰郷した江藤新平と、それ以前に戻っていた島義勇が不平士族たちのリーダーとなりました。

1874年、江藤や島らは旧肥前藩士らに擁立され佐賀の乱を起こします。佐賀の乱といいつつも、旧肥前藩士の全てが立ち上がったわけではなかったため、圧倒的武力を持つ新政府軍の前に敗北。江藤や島はつかまり処刑されました

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