室町時代戦国時代日本の歴史

城ってどうやって攻めるの?戦国時代における城の攻め方と守り方のあれこれについて解説!

美しい上に防御性にも優れている日本のお城。日本のお城は出来るだけ敵に攻められないようにいろいろな工夫がなされている場合が多いのですが、戦国武将はあれやこれやの色々な手で城を落とそうとしていたのです。 今回はそんな日本の城攻めについて解説していこうと思います!

そもそも城攻めってとても大変だった!

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戦国時代において城というのは本拠地として使われることが多かったため、基本的にこの城を落とすことで勢力を拡大していくのですが、実は城というのはかなり強固なつくりとなっています。

まぁ、そうしないと敵にたやすく城を明け渡すことになりますからね。当然といえば当然ですが。

しかし、それを含めても城を攻めるというのはかなり大変なもので古代中国の軍略家である孫子によると城を落とすには守っている兵の5倍いなければ無理といったとか。つまりは一万人がこもっていたら五万人の兵士が必要というわけなんですね。そのため戦国大名はこの攻城戦をいかに損害が少なくそして兵力を少なくてもいいようにする方法が編み出されていったのです。

戦国時代によくあった籠城戦って勝てるの?

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戦国時代によく見かける籠城戦。これは簡単に言えば城にこもって敵の攻撃を凌ぐものなんですがいくら守っても敵を倒さなければ勝ったとは言えません。そうなると籠城戦なんかせずに一か八かの大勝負をすればいいと思うのですが、籠城戦をする側にも色々な作戦があった模様で大体の籠城戦には後詰というものを期待していました。

後詰というのは簡単に言うと援軍のこと。つまりは籠城戦をすることによって敵の攻撃を凌ぎ切って後詰が来たところで大勝負を仕掛けるというのが理想的だったのです。

そんな理想的な戦い方をしたのが日本三大奇襲と名高い河越夜戦という戦い。

河越夜戦は後北条氏と古河公方・山内上杉の間で起こった戦なんですが、古河公方は8万人の兵力を擁して河越城を包囲。

普通8万人で包囲されたら崩壊するのが常なんですが、河越城は関東随一の堅城として知られており、後北条氏は3000しかいないにもかかわらず奮戦。そんな奮戦の最中に援軍としてやってきた後北条氏の当主である北条氏康は油断している連合軍に奇襲を仕掛け一気に攻め滅ぼし敵を一掃するという大勝利を収めたのでした。

たしかに籠城戦というのは北ノ庄城や小谷城のように完全に絶望状態から籠城戦をすることもありましたが、基本的には後詰を期待してそこから盛り返すということがなされていたのですね。

籠城戦に備える!城攻めの色々な対応術

戦国大名はもし城が攻められた時にどう耐え凌ぐかということを非常に重要視していました。そのため戦国時代の城は攻城戦に備えているものばかり。例えば城の周りによく松が植えられている場合が多いのですが実はこの松は単なる景観を良くするためのものではなく、この松の皮が食料として使えるという理由があったのです。また、熊本城ではイチョウがよく植えられていますが、これも松の場合と同じく食料として使えるという点から植えられていました。

また、食料の他にも攻城戦の場合だと非常に水というものが大切となります。そのため、城のいたるところに井戸が掘られ、飲み水が確保されることもあったそうです。

このように戦国大名は攻城戦に耐えられるためのいろいろな工夫をしていたのですね

色々あるよ!攻城戦の種類と方法について解説

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さてここまでは城攻めのときの城の対応についてみていきましたが、城を攻める側からしたらこの対応術をなんとか乗り越えて城を落とさなければなりません。

ここではそんな城の攻め方について特に行われていた6つの攻城戦の仕方について解説していきたいと思います。

#1 スタンダードだけど危険いっぱい【力攻め】

攻城戦といって一番最初に思い出すかもしれないのがこの力攻めではないでしょうか?

要するに自分の兵力を使って城を攻め落とすというなんの謀略もないまさしく力で攻め落とすのですが、戦国大名はこの力攻めに一番備えているためやった場合の損害は甚大。しかし大名達はそんなことを御構い無しに攻めたんだとか。

方法なんですが、この頃の城は堀に囲まれておりその上に塀が建てられていました。城を攻める側はこの塀に雲梯や梯子をかけていちいち登っていき、さらに城門などは破城槌というどでかい武器を使って城の城門をぶっ壊して突入していきました。

しかし、ただ単に力攻めをするのではなく夜の間とか敵が油断している隙などを狙って攻城戦を行う奇襲という形態も使われることもあったのです。

 

#2 残虐性はダントツ【火攻め】

次に紹介するのは火攻め。これは簡単に想像することができるかもしれませんが要するにスパイを城の中に送り込んで火を城につけて炎上させるというもの。もちろん城の中にこもっている人たちはタダじゃすみませんね。しかし、敵側も上に書いている通り井戸をそこら中に掘って水不足をなんとか無くそうとしていたため効果はイマイチ。

しかしその火攻めをよく行ったのがあの織田信長だったのです。火攻めといっていいのかわかりませんが比叡山延暦寺は焼き討ちして修行していた僧侶達をなぎ倒していきましたし、さらには長島一向一揆では中江砦や長島城に立てこもっていた一揆勢に対して火攻めを行なったとされています。

残虐と言われた織田信長にふさわしいのかどうかはわかりませんがこのような城攻めもあったのですね。

#3 効果はバツグンだけど費用がとんでもない【水攻め】

攻城戦では火攻めをしていたと解説しましたが、火攻めもあれば水攻めもありました。

水攻めというのは川の近くにある城の場合だとその川の流れを無理やりせき止めて周囲に堤防を作って城を湖の上にある小島のような状態にするというもの。

こうすることによって敵の援軍を近寄せられなくして相手に絶望感を与えることもできるのですが、この水攻めの最大の真髄が飲み水が飲めなくなるということ。城の辺りに川の水が一気に入ることで汚水や川の水が井戸の水に入ることによって籠城戦どころか人として生きていく上で一番必要不可欠な飲料水の確保ができなくなってしまうのでした。

この水攻めを得意としたのがあの有名な豊臣秀吉。日本三大水攻めと言われている備中高松城の戦いや紀伊の太田城の水攻めや忍城の水攻め(これだけは総大将は石田三成)などはすべて秀吉に関連している城の攻め方だったのです。

ちなみに、この水攻めは城を攻める側からしてもとんでもないものであり、例えば備中高松城の水攻めの場合高さ8メートル底部24メートル上げ幅12メートル長さ4キロの堤防わずかを12日間で作るというとんでもない大工事な上に、堤防を作るための人件費や堤防の材料などなど全部合わせて総費用なんと現在の価値にして約300億円。

こんな大金と人はどこにあるんだと思いますが、だからこそ織田家や豊臣家のような裕福な戦国大名だけができた戦法だったのですね。

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