日本の歴史江戸時代

1837年の大事件「大塩平八郎の乱」はなぜ起きた?わかりやすく解説

歴史上の出来事の中には「名称はよく知っているけど内容はほぼ知らない」というもの、結構ありますよね。「大塩平八郎の乱」もその一つではないでしょうか。教科書で見たことはあるし、暗記した記憶はあるが、なぜ起きたのか、そもそも大塩平八郎なる人物が何者なのか分からない……。そんな声を聞くこともしばしば。せっかくだから、大まかな概要くらい言えるようになっておきたい!という方のために、今回の記事では「大塩平八郎の乱」について詳しく解説いたします。

なぜ起きた?大塩平八郎の乱の時代背景と原因に迫る!

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大塩平八郎とは江戸後期の天保八年(1837年)に大阪で起きた反乱のこと。半日で平定されたため、反乱の規模としては大変小さなものに分類されますが、当時の世相を映す重大な出来事として後世に語り継がれ、現代では小学校の社会科の教科書にも載っているほど。いったいなぜ起きたのでしょうか。その理由と原因を探るため、大塩平八郎の乱の時代背景について詳しく見ていきましょう。

舞台は大坂町奉行所・大塩平八郎とは何者?

大塩平八郎は大坂天満生まれ。大塩家は代々、大坂町奉行組与力を務める家柄でした。

与力現役時代の平八郎は、強靭で清廉潔白な性格で、汚職や不正を嫌い、悪事を次々に暴くやり手の役人だったのだそうです。恨みを買うことも多かったようですが、上司や同僚に恵まれ、与力としての職務を全うします。

与力を辞した後は、学業に専念。朱子学が主流の江戸時代において、陽明学を専攻し、積極的に学んでいたのだそうです。

陽明学の中にある「知行合一(ちぎょうごういつ・知識と行為は一体である)」という教え。これが、与力時代の大塩平八郎を支えていたともいわれています。

隠居後は自宅に私塾(洗心洞)を開校。門弟を指導していたのだそうです。厳格で、自分にも他人にも厳しかったという大塩平八郎。質素で規則正しい生活を送っていたとも伝わっています。

天保の大飢饉・米価高騰~苦しむ庶民たち

大塩平八郎の乱が起きる数年前から、日本各地は様々な天災に見舞われていました。

大雨、洪水、冷害……。米は不作で、多くの農民たちが飢えに苦しんで命を落としていました。天保四年から天保七年(1833年~1836年)には「天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)」と呼ばれる最大規模の飢饉が起き、日本全国が危機的状況。飢餓で命を落とした人の数は二十万人とも三十万人とも伝えられています。

天下の台所といわれる大坂といえども、この状況には逆らえません。飢えに苦しむ庶民たちのために、大塩平八郎は奉行所に救済を進言します。

大塩平八郎をよく思わない役人がいたのか、奉行所といえど何もできない状況だったのか、この進言は却下。奉行所は何もしてくれません。

行動を起こしてこその知識。陽明学の基本に基づき、大塩平八郎は行動を起こし続けます。自宅にあった書物五万冊を売ってお金を作り、庶民の救済に当てたのだそうです。

強欲商人たちに怒り爆発!決起する大塩平八郎

現代でも、物資が不足すると買い占めに走る輩がいますが、昔も同じこと。お金持ちの商人たちは米の買い占めを始めます。

買い占めが起きると、米の値段はどんどん上昇。これを見た商人たちは、さらに米を買い占め、米の価格をどんどん釣り上げていきます。

関西で商売をしていた大丸(現在の大丸百貨店の前進)のように、義を重んじる商売をしていた商人もいましたが、この時ばかりは少数派。お金のある商人はこぞって米の買い占めに走り、私腹を肥やしていたのです。

庶民は飢えてくる死んでいるというのに!大塩平八郎の怒りは増すばかり。そんなある日、堪忍袋の緒が切れる決定的な出来事が起きます。

大坂町奉行の跡部良弼(あとべよしすけ)が、買い占めに走っていた商人の一人から購入した米を江戸へ送ったのです。この米は、十一代将軍徳川家慶就任の儀式のために使うのだとか。跡部は老中・水野忠邦の弟であり、大坂庶民の苦しみなどまるで見えていないかのよう。実際には、跡部は食糧難対策にいろいろ動いていたのだそうですが、大坂の人々のためにはなっておらず、これが大塩平八郎の乱の引き金になったと考えられています。

豪商に天誅を!勢力300名・半日で鎮圧された大塩平八郎の乱

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不作が続けば食糧難に陥るのは必至。対策をとろうにも、食べるものが手に入らなければどうしようもありません。しかし現実に、米を買い占めている商人たちは大勢いるのです。奉行所が何か行動を起こせば、商人たちの横行を止めることができたかもしれない……。しかし結局、奉行所が庶民のために動くことはありませんでした。もう我慢の限界。大塩平八郎は自分の信念にそって行動を起こします。

私財を投げうって民衆を救済・反乱の準備

米を作り年貢を納める庶民たちを守らずして何のための幕府か。大塩平八郎の怒りは頂点に達しました。

彼はとうとう、反乱を起こすことを決意します。米を買い占め私腹を肥やす豪商たち、何もしない役人たち、そして江戸幕府に対して、武装蜂起し天誅を下そうとしたのです。

塾の門下生や農民など、大塩平八郎に賛同する者たちが彼の元に集結。反乱といっても、農民一揆や暴動のようにやみくもに暴れまわるのではなく、慎重に準備を進めようとします。

大塩平八郎は家族と縁を切り、武器を購入。集まってきた門下生たちを訓練。役人たちから何か言われたら「一揆がおきたときにすぐ制圧できるよう、門下生たちを訓練している」と言ってごまかし、ちゃくちゃくと準備を進めていきます。

彼らのターゲットは、あくまでも私腹を肥やす豪商たちでした。ただ、この時、大丸(大丸百貨店の前身)について大塩平八郎は「大丸は義に厚い商人だ」と話しており、焼き討ちを免れたといわれています。

決行寸前に密告!大塩平八郎大ピンチ

反乱決行の日は天保8年2月19日(1837年3月25日)に決まりました。

この日は、あのいまいましい跡部良弼のところに新任の奉行が挨拶に来る予定の日。大塩たちはまず、跡部と新しい奉行の二人の会合を爆弾で襲撃し、殺害することにしたのです。

大塩平八郎は「救民」を掲げ、「豪商に天誅を加えるべし」と、幕政を批判する檄文を飛ばします。

そして大坂に住む人々に対して「火災が起きたら天満へ」と告げ、反乱を拡大するよう呼びかけたのです。

準備は万端。後は実践あるのみ。しかし決行日の2日前になって、同志のひとりが裏切り、奉行所に密告してしまいます。

いくら幕府や悪徳商人たちに怒りを募らせているからといっても大罪は大罪。パニックになる者がいてもおかしくありません。

計画が漏れたことを知った大塩平八郎は窮地に立たされます。

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