日本の歴史鎌倉時代

南朝の忠臣・楠木正成を祀った「湊川神社」のすべてー地元在住ライターがご紹介!

今からさかのぼること700年近く前のこと。朝廷は北朝と南朝に分かれて覇権を争っていました。鎌倉幕府を倒して天皇親政を掲げた後醍醐天皇に、ひたすら忠節を尽くして散っていった南朝の忠臣たち。その中でも楠木正成(くすのきまさしげ)は、その強烈な生きざまが今でも日本人の心を放しません。彼はその死後に大楠公(だいなんこう)と呼ばれて尊崇され、神戸の湊川神社で神として崇められているのです。しかし、正成は本当に天皇に無二の忠節を誓う忠臣だったのか?そんな湊川神社の成り立ちを通して、彼の生きざまをご紹介できればと思います。

「悪党」と呼ばれた楠木正成の数奇な人生

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By 投稿者がファイル作成 – ブレイズマン (talk) 07:20, 19 January 2011 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

地元神戸では「楠公(なんこう)さん」と親しまれている湊川神社ですが、地元在住の筆者は、毎年のように初詣に出かけています。といっても楠木正成の出生地や本拠は河内国(現在の大阪府南部)にありましたので、「なぜ神戸に楠木正成が祀られているの?」と怪訝に感じる方も多いでしょう。実は湊川の地は、正成が戦死した場所だったのです。まずは正成の数奇な人生から紐解いていくことにしていきましょう。

悪党と呼ばれ、鎌倉幕府の支配に抵抗する正成

楠木氏は、正成以前の歴史が明らかにはなっていません。由緒ある源平藤橘の一つである橘氏の後裔を自称していましたが、おそらく詐称だったことでしょう。

元々は土着の地侍たちの頭目だということが定説でしたが、実はそうではなく、元々は関東の利根川流域に住む武蔵七党の一派で、鎌倉の北条家の被官(家臣)となって畿内(関西)へ移住してきたということが有力になりつつあります。

ややもすれば南朝びいきな「太平記」によれば、正成は1309年に16歳で元服しました。実は戦国大名毛利元就の先祖だった毛利時親から兵法を学んだそうですね。

やがて父の正澄が亡くなり、跡を継いだ正成は花も実もある青年武将として飛躍していくのです。しかし、最初から後醍醐天皇方について倒幕を志していたわけではありません。紀伊国を本拠にしていた鎌倉御家人湯浅氏との勢力争いの中で、立場上、反鎌倉幕府になっただけのこと。後醍醐天皇に味方したのは、その口実のためだったのでした。

当時の支配者層に対抗して、独立独歩の軍事行動や経済活動をしていた人々を【悪党】と呼びますが、幕府に抵抗して勢力を広げていく正成もまた、自分の利害のために立ち上がった悪党の一人でした。

鎌倉幕府の大軍を引き受け、ゲリラ戦を展開する

倒幕のための挙兵が失敗し、後醍醐天皇が隠岐に流されていた頃、正成は少数の兵らとともに赤坂城に籠城していました。幕府方は30万(おそらく太平記の誇張)とされる大軍を送り、これを討伐しようとします。

しかし正成は、罠を張ったり、大岩や大木を落としたり、熱湯を浴びせかけるなどのゲリラ戦法に徹し、城はなかなか落ちませんでした。正攻法や正々堂々とした戦いを美徳とした幕府方の武士たちに比べて、地の利を生かして卑怯であろうが何であろうが使えるものは何でも使って戦う正成の戦法に、幕府軍は驚きを禁じ得なかったのではないでしょうか。

20日ほど経って、正成は兵糧の少ない赤坂城を放棄。姿をくらましました。とりあえずの勝利に満足した幕府軍は関東へ引き上げますが、半年ほど経つやいなや、正成は再び赤坂城を奪い返します。

まるでいたちごっこのように、幕府はまたもや討伐軍を編成し送り込みますが、今度は用意周到に千早城を築いて金剛山一帯を要塞化し、幕府軍を迎え撃ったのです。赤坂城の時と同じく、正成は執拗なゲリラ戦を繰り返し、幕府の大軍を翻弄しました。

次第に疲労困憊していき被害も増えていく幕府軍。すると幕府の有力武将だったはずの足利高氏が反旗を翻し、京都にあった鎌倉幕府の拠点【六波羅探題】を滅ぼしたというニュースが舞い込みます。さらには新田義貞によって肝心要の幕府そのものが滅ぼされてしまいました。

大軍を正成討伐に送ってしまったがために、ただでさえ手薄な幕府方が攻められ、滅ぼされたという形になったのですね。これだけの大軍を河内国の山奥に引き付けた正成の戦功は随一といっても良いでしょう。

建武の新政の失敗と足利尊氏の挙兵

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By known – The japanese Book “Miru Yomu Wakaru Nihon No Rekishi 2 Chusei”, 1993, Asahi Shinbun-sha, パブリック・ドメイン, Link

鎌倉幕府が倒れ、約150年ぶりに政治の実権が朝廷の手に渡りました。後醍醐天皇を中心とした中央集権的な政治体制を【建武の新政】と呼びますが、武士たちの権利を保護していた鎌倉幕府とは違い、朝廷の政治方針は180度転換してしまったのです。

かつて幕府が定めていた御成敗式目という法令集によれば、武士の土地権利に関する取り決めは以下の通りでした。

 

一、御下文を帯ぶると雖も知行せしめず年序経たる所領の事

右、当知行の後、廿箇年を過ぎたる者は、右大将家の例に任せ、理非を論ぜず、改替するあたはず。而るに知行の由を申し御下文を掠め給はるの輩、彼の状を帯ぶと雖も敘用するに及ばず。

 

(現代訳)頼朝公が取り決めたように御家人が20年間支配した土地は、元の領主に返す必要はない。しかし、実際には支配していないのに、支配していたと偽った者は証明書を持っていても、その取り決めは適用されない。

 

武士が20年以上持っていた土地は、その武士のものであり、何人たりともそれを侵すことはできないとされていました。しかし朝廷は、その法令を完全に無視して「全ての土地は天皇のものであり、所領が誰のものであるかは天皇が決めること」と発表したのです。

それを聞いた全国の武士たちは憤慨。次第に朝廷に対して不満を募らせていきました。さらには功績もないくせに朝廷に近しい者たちが立身出世し、軍功のあった者が冷や飯を食わされるという事態も頻発。こうした不満を受けて朝廷も政策変更を迫られますが、せっかく出した政策をすぐに引っ込めたりするような朝令暮改の有様に、心ある武士たちの心は、どんどん離れていったのです。

結局、そんな武士たちの心の拠りどころとなったのが足利尊氏であり、1335年、折しも反乱討伐のために関東へ出陣したきり、後醍醐天皇の元へは戻ってきませんでした。ここにきて尊氏はついに挙兵。京都の朝廷と対立を深めていきます。

苦悩する正成。そして湊川へ

いっぽう、正成はどうしていたのでしょう。建武の新政のもと、記録所や雑訴決断所などの要職に任命され、地元である河内守や和泉守に任じられて朝廷で重きをなす存在でした。当時の武士は利に聡いのが当たり前で、正成も例に漏れず、自分の立身出世のために働いていたことでしょう。

しかし、この頃から正成の心の中で違う心情が芽生えていたのではないでしょうか。土豪上がりで身分の低かった自分を、ここまで押し上げてくれたのは後醍醐天皇であり、その恩に報いねばならないと。現在の河内長野市にある観心寺は楠木氏の菩提寺ですが、正成は天皇への報恩のために三重塔を誓願しています。正成にしてみれば「自分は武士であり、不満を持つ他の武士たちの気持ちも痛いほどよくわかる。しかし朝廷が、たとえ間違った政治をしようと支えねばならない。」そう考えていたのではないでしょうか。

関東に居座っていた足利尊氏は、討伐にやってきた朝廷の遠征軍を箱根で破り、1336年には勢いに乗って京都へ進軍してきました。後醍醐天皇は比叡山へ逃れ、そのまま尊氏がすべての実権を握るかに見えました。ところが、東北地方から北畠顕家が後を追うように進軍し、天皇方の新田義貞や正成たちが足利軍を挟撃するに及び、尊氏はたまらず敗退。遠く九州へと落ち延びていったのでした。

しかし、足利軍もさるもの。早くも同年には九州で勢力を盛り返して逆襲に転じ、50万(これも誇張のある太平記の記述)もの大軍で再び京都へ進軍を開始したのでした。湊川の決戦は、もうそこまで迫ってきていました。

天皇の盾となって湊川に死す

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足利軍を破った頃から、足利尊氏の逆襲を予見していた正成は、「この有利なうちに足利尊氏と和睦するべき」と朝廷に献策します。しかし、戦勝に浮かれていた朝廷の近臣たちは一笑に付しました。「もはや尊氏は立ち直れぬし、朝廷の威光があれば二度と逆らうこともなかろう」と。

いよいよ足利軍が海陸から大軍をもって進軍してきた時も、「大軍を迎え撃つには、いったん京都を空にして敵を入京させておき、その後に挟撃するべき」との正成の献策も、近臣に却下されてしまいました。その理由は、「一戦もせぬまま帝(天皇)が二度までも京都を離れるのは世間体が悪い」というものでした。戦いを知らぬ公家ごときに指図されてしまう朝廷の状況を見て、おそらく正成は死を覚悟したことでしょう。

正成は致し方なく兵庫(現在の神戸市中央区あたり)へ軍を進めます。正成が布陣したのは湊川の山側で、当時は海岸線もかなり内陸にありました。いわば海と山に挟まれた狭隘な地で、大軍を迎え撃つにはうってつけの場所だったのです。しかし楠木勢はわずか700余。新田義貞軍と連携しているといっても心許ない小勢でした。

いったん戦端が開かれると、やはり大軍の力押しの前に苦戦が続きました。頼みの新田軍も押されて敗走を始めてしまい、ついに前後に敵を引き受けるという事態になってしまいました。それでも6時間にも及ぶ激闘の末、16度にもわたる突撃を敢行し、ついに刀折れ矢尽きた楠木勢は壊滅。最期は弟の正季と刺し違えて自害したといいます。

結局この戦いで敗れた朝廷側は、足利尊氏の入京を許してしまい、足利幕府が成立することになりました。また、後醍醐天皇は大和国吉野(現在の奈良県南部)へ逃げて南朝を開き、南北朝時代という不毛な戦いの時代へと突入するのです。

いっぽう正成を失った楠木氏は、その後も南朝方として戦い続けました。しかし南朝の勢力が衰微していくに従って勢いを失くしていき、歴史のうねりの中に埋もれていったのです。

湊川神社の創建と政治利用

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ここからは、湊川神社の創建とその歴史について説明していきますね。正成は確かに忠臣には違いありませんでしたが、後世の為政者たちからうまく政治利用されたとも言えるでしょう。果てしてそれはどういうことだったのか?真実に迫ります。

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