4.新選組でどんな活躍をした?
新選組をスターに押し上げた池田屋事件は、京都への放火を未然に防いだ英雄として、その名を世の中に轟かせます。2時間に及ぶ激闘で一帯は血だらけだったとか。新選組時代に佐之助はどんな活躍をしたのでしょう。
4-1解明されない池田屋事件
元治元(1864)年7月8日に、旅館池田屋に潜伏していた志士を見つけ、新選組が総攻撃を仕掛け壮絶な斬り合いが行われたのです。この激戦で、長州藩の吉田稔麿や宮部鼎三ら主要人物を始め、多くが亡くなり大打撃を受け、新選組にも負傷者が続出しています。
潜伏場所を知っていた京都守護職の命令で、当日ローラー作戦を行っていたから襲撃できたとか。池田屋事件での新選組の行動は、局長の近藤組と副長の土方組に別れたことくらいで、出動メンバーもはっきりとは分かっていません。近藤は1:2で土方組を本隊とした編成をしており、人数は34人。鴨川西岸を担当した近藤組は沖田総司ら10人、東岸は土方組の佐之助ら24人が担当したようです。
幕府の支持を待っていたのでは手遅れになると、近藤はローラー作戦の発動を指示したとか。激闘は2時間に及びこの事件に参加した会津藩が出動したのは、近藤組が池田屋に突入して1時間後だったようです。残念ながら佐之助は、土方組のため最初に突入することは叶いませんでした。
4-2三条大橋制札事件
佐之助が超活躍したのは、三条大橋制札事件だと思います。三条大橋西詰の制札場から、長州藩の罪状が書かれた制札を外して、鴨川に投げ込んだ土佐藩士たち8人との間で起こりました。第7番隊組長佐之助は隊士たちと先斗町の会所に詰めており、真っ先に駆けつけ血だらけになりながらも奮闘したようです。
この後制札に手を付けるものはいなくなったと、佐之助は会津候から感謝状と金20両と別段金3両を給わっています。
4-3頭を活かした働きも
文久3(1863)年12月7日に壬生郷土で宿とした時、お世話になった八木家の南隣の南部家で不幸があり、壬生浪士の代表として通夜に参列しています。狂人的なイメージがありますが、しめやかな場所に顔を出しお悔みを述べる役目も果たせる人物だったようです。
元治元(1864)年8月下旬には自我が強くなっていた近藤勇を、京都守護職公用局に訴え、隊の廓清に尽力しています。新選組空中分解の危機にありましたが、会津候の仲裁によりことなきを得たようです。
5.束の間の幸せ?佐之助の結婚
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新選組に籍を置くものが結婚することは、珍しいことでした。死と隣り合わせの身で、嫁を貰うなんて考えられなかったのでしょう。愛妻家だった佐之助は、子供も儲けています。
5-1結婚する佐之助
新選組は、駐屯地を西本願寺北集会所に移しました。高嶋屋を名乗る町人菅原長兵衛の次女で18歳のまさと、26歳の時に祝言を挙げます。新駐屯地近くに新居を構え、毎月10~15両を渡し暮らしていました。更に新選組から炊いた飯の配給が毎日3度あり、裕福に暮らせていたとか。2人の間には「茂」という男の子が誕生しており、佐之助は“立派な武士にする”と大いに喜んでいます。
佐之助の人生はこの頃が最も充実しており、新選組で名を揚げて十番隊組長となり伍長2人・隊士10人を部下に持つ身分となったと故郷にも伝わったようです。
5-2妻子と懇情の別れ
10月14日に、15代将軍徳川慶喜は、大政奉還を朝廷に上表します。12月9日の王政復古の政変で、幕府も京都守護職も廃止になったのです。12日には新選組も転陣することになり、前日に佐之助は自宅に戻り、二分金ばかり200両をまさに手渡します。
その時佐之助は「大きな戦争が起こる。自分の命の保障はない子供たちのことを頼む。」と伝えたようです。翌日まさは、今にも生まれそうな2番目の子の顔も見ずに、新選組屯営から出陣する佐之助を見送りました。これが妻子との永遠の別れとなります。
反幕府の薩摩や長州が続々と京にやってきたのです。身の危険を感じたまさは、身重の体で茂を連れ実家に戻ります。2番目も男子でしたが、生後7日後に亡くなりました。新選組は伏見駐屯所におり、18日には近藤局長が伏見街道で御陵衛士の残党に襲撃され重傷を負い、沖田総司と共に大坂町奉行屋敷に送られます。
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