幕末日本の歴史江戸時代

新選組十番組長・槍の名手「原田左之助」とは?その生涯をわかりやすく解説

ちょっと雑学

万太郎は、岩田文碩の次女スエと結婚しています。近藤勇は文碩の三女コウを養女に、万太郎の末の弟周平(昌武)も養子にしており2人を結婚させ新選組局長の座を譲ろうと考えていたようです。佐之助の腕前が確かなように、師の谷兄弟も槍の腕は相当だったのでしょう。

しかし、コウは沖田総司に恋をし、告白するも叶わず喉を突きます。一命を取り止めるも、他家へ嫁に行きました。

2-2江戸に下り試衛館に入門

槍の実力に満足したのか、大坂をでて江戸へと向かいます。自由闊達な気風に一目惚れした佐之助は、浪人道場と呼ばれていた「試衛館(しえいかん)」に食客の身分で入門しました

道場主の近藤勇や塾頭の沖田総司、土方歳三、山南敬助、永倉新八、藤堂平助、井上源三郎、斉藤一らと出会い、剣術の稽古の傍らで他流試合の相手などを勤めています。仲間たちと攘夷論を熱く語り、酔った時などは切腹傷の自慢をしていたようです。

3.新選組の殿は佐之助だ!

image by PIXTA / 40255958

近藤勇以外に佐之助を上手に扱える者がいなかったといわれています。司馬遼太郎は名作『燃えよ剣』の中で、「猛犬のような男だが、それだけに、近藤への随順は動物的なものがあった。」と、佐之助を紹介しています。

同じ臭いを感じた近藤勇に尽くし厚い信頼を受け、慶応元(1865)年6月頃に「殿軍(十番隊)」の組長を任され、頭脳明晰というべき能力と、名人と呼ばれた槍の妙技を大いに奮ったようです。小荷駄雑具方の頭を経て十番隊組長になり、秀でた用兵の才能を感じた土方の意向により「小荷駄奉行」にまで出世します。

3-1浪士組に入隊し上洛

文久3(1863)年2月に幕府が将軍家茂上洛による警護のために募集した、浪士組に近藤勇や土方歳三らと生死を誓いあい入隊しました。幕府が浪士組を結成した理由には、江戸から過激な尊皇攘夷思想を持つ浪士たちを追い出すためとの説もあります。腕が立てば、農民でも犯罪者でも身分に関係なく入れる組織だったのです。

上洛した佐之助たちを待ち受けていたのは、浪士組の分裂でした。浪士を集めた庄内藩郷士清河八郎は攘夷思想の持ち主で、天皇を中心に日本をまとめ海外の脅威から日本を守るという強い思いがあったようです。3月に清河らは帰東しますが、佐之助ら近藤勇の試衛館の者と芹沢鴨の水戸の者は京に残留します。

佐之助の脱藩は、洋式軍制を入れない藩政も理由だったのですが…。武士として活躍の場を求めた、出世欲が勝ったのでしょうか。それとも、仲間との絆が深かったのでしょうか?

3-2新選組の幹部となる

当初の目的だった将軍の警護を遂行するため京に残った佐之助らは、京都守護職を務める会津藩主松平容保の預かりとなり、後の新選組となる壬生浪士組を結成します。第一次編成で副長助勤となった佐之助は、8月18日に起ったクーデター「8月18日の政変(御所の政変)」に出動。三条実美他尊王攘夷派の公卿7人の都落ちを成功させ、長州藩士たちを京から追い出しました。この政変後から、壬生浪士組は「新選組」と名乗り活動を始めます。

佐之助が新選組で京にいる5年間では、他の試衛館メンバーと同様に、初期の頃から副長助勤となり、有事には武士の誉というべき殿を任されました。血の気の多い佐之助は、「池田屋事件」など新選組の関わる主な事件には、必ず顔を出しています。

3-3新選組で佐之助が殺した人々

芹沢鴨の、数々の乱暴狼藉事件が露見。松平容保にかかる、生糸商の大和屋を理不尽に襲ったことに端を発し激怒した会津藩は、近藤、山南、土方、沖田、佐之助に、芹沢鴨の暗殺を命じます。佐之助は山南と組み芹沢の側近平山五郎の寝首を掻き、逃走した野口健司も後日仕留めました。

また、長州の間者で17歳の楠小十郎を近藤の命で斬殺。元治元(1864)年5月20日の夜には、駕籠で帰宅する大阪西町奉行所与力の内山彦次郎を天神橋で、近藤、土方、永倉、沖田、島田魁、井上らと襲い殺しています。他にも、池田屋事件で主人が逃がした長州浪士の一人や禁門の変では日野大納言邸に潜む長州兵など5人。三条大橋制札事件では首領とされる藤崎吉五郎を5番隊士伊木八郎と挟み撃ちにして殺し、伊東暗殺における油屋小路事件では両刀使いの名手御陵衛士の服部武雄を自慢の槍で仕留めています

次のページを読む
1 2 3 4
Share: