ちょっと雑学
大政奉還1ヶ月後の慶応3(1867)年11月15日に、京の近江屋で坂本龍馬を暗殺したのは、新選組との噂が流れ佐之助が疑われます。近江屋に残された下駄は、宿が新選組に貸していたもので、龍馬と一緒にいて襲われた中岡が2日間生き延び、暗殺者が「こなくそ」と伊予の言葉を話したと証言しました。
伊予藩出身者は新選組では佐之助だけ。現場に残された刀の鞘が、佐之助のものだと、元新選組で御陵衛士を結成した伊東甲子太郎が証言。近藤勇を始め新選組の誰もが、佐之助の仕業ではないと反論しました。因みに佐之助は、証言者伊東の暗殺事件「油小路事件」に出動しています。
現在は、佐之助ではなく京都見廻り組の仕業というのが通説。今井信郎が、”自分が坂本龍馬を斬った”と名乗り出たからです。
6.新選組を去る佐之助
Saigen Jiro – 投稿者自身による作品, CC0, リンクによる
大政奉還後の鳥羽伏見の戦いで敗れ近藤らと江戸に下り、近藤が旗揚げした「甲陽鎮撫隊」に所属しますが、甲州勝沼の戦いにも敗北したのです。江戸に戻るも近藤らと意見が合わず、永倉新八と共に、江戸城和田倉門に「靖共隊」を作ります。江戸城開城後に、彰義隊に取り込まれ絶命しました。
6-1起ってしまった戊辰戦争
慶応4(1868)年1月3日に、鳥羽伏見領街道から入京しようとする旧幕府軍を阻止しようと、薩摩藩との間に戦争が起こります。薩摩藩の一斉射撃により苦戦し、伏見奉行所が砲火で炎上し退却せざるを得ませんでした。土方の元で佐之助は、隊士に号令したり局長のような働きをするも、6日には津藩の裏切りにより旧幕府軍が総崩れとなったのです。一端大坂に退却するも、9日に天保山沖から純動丸に乗船し海路で江戸品川へ逃れます。
1ヶ月後の2月12日に、前将軍徳川慶喜が江戸城をでて、上野の大慈院で謹慎したことで、新選組は半隊ずつ警護に当たるよう命令されました。甲府勤番支配斉藤駿河守らと甲府城に拠り、薩長の進撃を阻む目的で、近藤は甲州鎮撫結成の内諾を得ます。
6-2甲州鎮撫隊敗戦し靖共隊を結成
小十人格の旗本となった佐之助が甲州駒飼に着陣した頃、下諏訪から進路を変えた東山総督府参謀・板垣退助ら支隊が入城します。土佐と因幡の兵は石和に進出し、勝沼の関門を突破。柏尾の鎮撫隊本陣に迫ったようです。
前日近藤は援軍要請のため土方を江戸に向かわせ、勝沼に陣を置きます。佐之助は鶴瀬と勝沼の間に位置する観音坂に、大砲二門を据えて陣取ったのですが、鎮撫隊の策略は失敗に終わりました。成功していれば、佐之助には三万石が用意されていたとか。鎮撫隊解散後に、佐之助は永倉と矢田賢之助と出会い、近藤、土方と再開するも、意見が合わず袂を分かちます。
佐之助と永倉は、永倉の友で御書院番の幕臣芳賀宜道を隊長に、100名の歩兵を集め「靖共隊」を結成。旧幕府歩兵七聯隊に属し、旧会津藩邸で時を待ちます。江戸城明け渡しの前日、霊山寺に転陣し、第七聯隊を追い北へ向かい進軍しました。突然佐之助が、「用向きでどうしても行徳宿まで戻る」といい出したのです。
後を追うという約束で許されましたが、佐之助は戻りませんでした。妻子に会いたかったといわれていますが、佐之助が感情を害したことでの決別との説もあります。
6-3上野戦争で絶命す
江戸に潜伏した佐之助は、元新選組の隊士らと出会います。上野東叡山を本拠にする、徳川家公認団体彰義隊に、佐之助ほどの人物が一隊士として参加しました。諸藩を脱走したものなども集まっており、総勢2000人もいたようです。
総督府は彰義隊を目の敵にし討伐を決行し、5月15日に上野戦争が勃発します。佐之助は銃弾を受けて負傷し、本所五間堀堀留(現:江東区森下)にある、神保山城守邸まで落ち延びますが、5月17日に29歳で戦死しました。
妻まさに佐之助の死を伝えたのは、最期に立ち会った新選組で勘定方を勤めた岸島芳太郎でした。佐之助の戒名「正誉円入居士」ですが、荼毘に付されたのが合葬で、お骨もなく墓も分からない状態とまさが語ったため、現在でも“九死に一生を得た佐之助は、支那に渡り馬賊の群れに入り、その後頭となり日露戦争で皇国のために活躍した。”との説がささやかれています。
鬼をもひしぐ豪傑でしたが目元の涼しい二枚目!佐之助の最期はあまりにも寂しかった
新選組ではいつも武士の名誉とされる殿を任されており、近藤勇からの信頼は相当なものだったようです。佐之助の最後は、名もない一兵としてたった一人で死んだというのが本当でしょう。彼の最期は、あまりにも寂しすぎるように感じられて仕方がありません。
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