イギリスヨーロッパの歴史

イギリスとアイルランドのややこしい「北アイルランド問題」をわかりやすく解説!

皆さまはイギリスの正式名称をご存知でしょうか?イギリスの正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」という名前でこの名前は世界で1番長い国名としても知られています。これを聞くと「どうしてなんでこんなに長い名前なんだろう?」と疑問に思った方もいるのではないでしょうか。 今回はそんな疑問を解決するため、この記事では今話題の北アイルランドについて、イングランドとアイルランドの長年にわたるややこしい歴史から解説していきたいと思います。

北アイルランドの情報

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北アイルランドはアイルランド島北東に位置するイギリスの構成国の一つであり、この地域は元々アイルランドが独立する際にイギリスに残ったところがそのまま成立しました。

そのためアイルランド島でアイルランド共和国と国境を接しています。 ちなみに首都は東岸に位置するベルファストです。

すべての始まり

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イギリスによるアイルランド侵略の歴史は1177年にジョン・ド・コーシーというイギリスの貴族がアイルランドのベルファストに侵攻してこの地を支配したことが始まりとされています。のちにこのベルファスト周辺はアルスター地方と呼ばれることとなり、一足先にイギリスの植民地となっていき、ここから長年にわたる植民地が始まることになったのです。イギリスとなったアルスター地方にはイギリスからの移民がやってくるようになり、中心地であるベルファストに住み着くことになります。

さらに問題となったのが16世紀に入り、アイルランドではイギリスに対する反乱が頻発するようになったこと。特にアルスター蜂起はアイルランドにとって最大の反乱となり、アイルランドの国民が存亡をかけて戦争に挑むことになります。

しかし、圧倒的な軍事力を持っているイギリスに敗北して反乱したリーダーが亡命。こうして、反乱は終結したことでイギリスによる支配の時代が始まることになるのでした。

ピューリタン革命の混乱

こうしてイギリスの支配が決定的になったアイルランドでしたが、1641年に入るとアイルランドは大反乱が勃発していくようになります。それもこの当時イギリスではスコットランドからやってきた王様によってスチュアート朝が入ってきたことがありました。このスチュアート朝の時代にはカトリック教徒から土地の没収が行われていくようになり、この厳しい植民地政策がに対する反発も強まることになります。

こうして再びイギリスに対する反感が強まっていくようになったアイルランドはアルスターを中心として反乱が起こるようになりますが、さらにアイルランドでは民族の問題に加えてカトリックとプロテスタントによる宗教戦争の色合いが濃いものでもありました。その宗教戦争の延長となったのが1649年にピューリタン革命。この革命によって権力を握ったクロムウェルはカトリックの勢力を抑える口実でアイルランドの征服を断行。完全にイギリスの領地として治めることとなり、こうしてアイルランドの土地はイギリス人地主の所有となってアイルランド人は小作人の立場におかれることになったのです。

しかし、クロムウェルが亡くなり王政復古の時代になると再びアイルランドでカトリックとプロテスタントの衝突が起こることとなり、イギリスに対する反感が強くなります。
その結果アイルランドではカトリックが多い土地とプロテスタントが多い土地で別れることとなり、特にプロテスタント系住民が多数派となった北アイルランドは後々の問題につながることとなるのです。

アイルランドとの亀裂

こうしてアイルランドは宗教問題が起こりながらもイギリスに支配されることになりましたが、支配されてしばらく経つとイギリスの植民地であった13植民地がアメリカとして独立。さらにはフランス革命が起こったことでアイルランドでも独立の気運が高まっていくことになります。

これに対してイギリスのピット首相は1801年にこれまで植民地という扱いであったアイルランドを正式にイギリスの一部として併合。これによってイギリスの正式名称は「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となります。要するにこれまでのイギリスにアイルランドの連合王国としての立場となったのです。

こうしてイギリスの一部となったアイルランドではカトリック教徒が多かったことで差別を受けるようになりしたが、イギリスはアイルランドをちゃんと統一するためにある程度のカトリックの信仰を認められることとなり、カトリックとの融和を目指していくことになります。

しかし、この制度はプロテスタント側が反発。アイルランドをイギリスの一部にするつもりがかえってその対立を強まってしまうことになります。

さらにはこの当時産業革命ていたイギリスでしたが、これに取り残されたアイルランドではジャガイモ飢饉という形で巻き起こることになり、多くのアイルランド人が移民としてアメリカなどに移住する結果を招いてしまいました。

このような流れはやがてイギリスからの独立を目指す動きにつながっていくことになるのです。

日本との意外な関係

仕事をボイコットするなどといった形で使われるボイコット。今では日本でも普通に使う言葉となっていますが、この言葉はもとはこの時代にいたイギリスの地主から来ている言葉です。1880年にイギリス人地主の土地の管理人ボイコット大尉が小作人としてこき使っていたアイルランド人が邪魔で仕方なくなっていき最終的には用済みとして追放しようとしました。これに対して、アイルランド人の小作人は商人は物を売らないという抵抗を行います。

地主からしたら物を売らなければ生活はできません。そのためボイコット一家の生活は一気に苦境に追い込まれてしまうこととなってしまい、最終的には屈服する事件が起こります。

その事件から法律に触れない程度で抵抗運動を行うことをボイコットと呼ぶようになったのでした。

大混乱のアイルランド

いわゆるナショナリズムを煽られたアイルランドの人々たちはイギリスからの独立を目指すためにいわゆる独立運動を行っていくことになりました。

1864年にはベルファストでの暴動の際にアイルランドの独立運動が活発化していくようになりますが、ここで一つ問題が発生していくようになります。それがプロテスタント内での違いでした。プロテスタントはカトリックみたいに一つの宗派ではなくいろいろな宗派に分かれている一つの括りでもありました。この当時プロテスタントが多かった北アイルランドの人たちはカルバン派と呼ばれる人たちとイギリス国教会を信仰している二つの宗派が存在していたのです。

カルバン派はイギリス国教会を認めなかったためいわゆるイギリス国教会を信仰しているイギリスから渡ってきた人たちから差別されていました。

こうして北アイルランドにはカルバン派とイギリス国教会派の二つの宗派で対立が起こってしまったのです。

そもそもアイルランド全体ですらぐちゃぐちゃにしていたのにさらにこのような宗教の問題も関わっていくようになったおかげで、北アイルランドはより複雑な様相を呈することになったのでした。

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