中国の歴史

若き名君「玄宗」とは?彼を変えた美女とはーその生涯をわかりやすく解説

中国の唐を全盛時代に導いた名君・玄宗(げんそう)。祖母・武則天(ぶそくてん)の引き起こした混乱を収拾し、若かりし彼は唐を発展させるために意欲的に政務に当たりました。しかし、彼の長い統治期間は、ひとりの美女と出会ったことにより、衰えを生じさせていくのです。前半と後半とで大きく異なる人生を歩んだ彼の生涯を、ご紹介したいと思います。

青年玄宗、国を救う

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玄宗が生まれた時代は、祖母・武則天による皇位簒奪が起こり、世の中が混乱期に陥っていたころでした。やがてそれに続く韋(い)皇后による専横により、さらに混乱は深まったのです。青年となった玄宗は、国を救うために動き始めるのでした。

偉大なる曽祖父・太宗と祖母・武則天

玄宗は、685年に唐の第6代皇帝・睿宗(えいそう)の三男として誕生しました。本来の名前は李隆基(りりゅうき)と言いますが、この記事では「玄宗」の呼び名で統一したいと思います。

彼の曽祖父は、唐の基盤を確立させ、中国史上でも最高クラスの名君と称される太宗(たいそう)。そして、祖母は武則天でした。この武則天は、則天武后(そくてんぶこう)という呼び名も有名かと思います。彼女は女性でありながらも息子・睿宗から皇帝の位を奪い、武周(ぶしゅう)という国を建国し、一時的に唐を消滅させたのです。

そんな混乱期が、玄宗の生まれた時代でした。

乱れる世の中を収めようと立ち上がる

ただ、祖母・武則天の治世は長くは続きませんでした。彼女は705年に皇位を中宗(ちゅうそう)に譲り、間もなく世を去ります。

これで混乱は収まるかと思われましたが、今度は中宗の妃・韋皇后の野心が頭をもたげました。彼女もまた野心深い女性で、自ら皇帝の座を狙い、何と夫の中宗を毒殺し、殤帝(しょうてい)を擁立したのでした。

さらに混乱に追い込まれる国内の状況。何とかしようと立ち上がったのが、当時若き皇子だった玄宗だったのです。

「武韋の禍」を終わらせ、皇太子となる

実は、これまでにも韋皇后とその一派を倒そうとクーデタを企てた者がいました。それが玄宗の従兄弟・李重俊(りじゅうしゅん)でしたが、彼は失敗し、殺されてしまいます。

それを見ていた玄宗は、同じ轍は踏むまいと、叔母の太平公主(たいへいこうしゅ)と手を結んで念入りに準備を進め、そして710年、韋皇后と一族や取り巻きを誅殺し、「武韋の禍(ぶいのか)」と呼ばれた混乱の時代を終わらせたのでした。

そして、父・睿宗が再び即位すると、玄宗は皇太子に立てられます。本来は、以前皇太子だった兄の李憲(りけん)がそのまま立太子されるはずだったのですが、李憲はとても謙虚な人物で、「何の功績もなかった自分より、弟の方こそ皇太子にふさわしい」として玄宗を推挙したのです。

兄と終生良好な関係を保ち続けた

長い中国の歴史において、皇帝の息子として生まれた兄弟が仲良く過ごしたという例は多くはありません。しかし、玄宗と兄・李憲に限っては、実に仲の良い兄弟でした。

弟の才能を認めて潔く身を引いた李憲に対し、玄宗はずっと兄に対する敬意を払い続けました。兄が臣下の礼を取ろうとしてもそうさせず、丁重に扱ったのです。そして兄の死後は皇帝に準ずる立派な葬儀を行い、いつまでもその死を悼みました。

こうした一面を見ると、玄宗が名君となれた理由がわかるような気がします。

「開元の治」の実行と楊貴妃との出会い

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即位して皇帝となった玄宗は、野心深い叔母・太平公主を排除し、様々な政治改革に乗り出しました。「開元の治(かいげんのち)」と呼ばれる治世前半は、彼が名君と呼ばれるにふさわしい時代となります。しかし、息子の妃である楊貴妃との出会いは、彼の運命を変えることとなるのでした。

叔母・太平公主に死を賜る

712年、玄宗は即位し、唐の皇帝となりました。しかし、彼の前に立ちはだかったのが、かつて「武韋の禍」を共に終わらせた叔母・太平公主。彼女は武則天の娘として、母から野心をしっかりと受け継いでおり、政権の中心に食い込もうとしてきたのです。

そして太平公主は、玄宗の廃位まで企みました。こうなっては、玄宗も黙ってはいられません。玄宗の腹心・張説(ちょうえつ)が玄宗に剣を贈り、暗に太平公主の暗殺を進言したこともあり、彼は動きました。713年、太平公主は玄宗の命令で死を賜り、これで玄宗の前に立ちふさがる者はいなくなったのです。

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