室町時代戦国時代日本の歴史

食い逃げに脱糞!?徳川家康が屈辱にまみれた三方ヶ原の戦いとは?

三方ヶ原の戦いの後、戦国時代はどうなったのか

image by PIXTA / 53831630

大敗して逃げ帰った家康は、冷静さを取り戻して「空城の計(くうじょうのけい)」の策を練り、信玄の追撃を避けることに成功します。その後進軍を続けた信玄ですが、上洛を果たすことなくその途上で亡くなり、戦国時代の勢力図は大きく変わり始めたのでした。

家康、「空城の計」で信玄の追撃を退ける

またしても逃げ帰った家康ですが、ようやくここで冷静さを取り戻したようです。信玄が攻めてくると考えた彼は、あえて城の門を開いてかがり火を盛大に焚いてみせました。

追って来た山県昌景ですが、これは何かの罠かもしれないと警戒し、何もせずに引き上げていったのです。

これは「空城の計」と呼ばれる戦術で、中国の三国志などにも同様の作戦が見られます。

その後、家康は一矢報いようと作戦を練り、武田軍を夜襲しました。これが「犀ヶ崖の戦い(さいががけのたたかい)」とされており、徳川軍が武田軍を崖から突き落としたとか、崖に布を張って橋に見せかけ、相手を崖下に落としたなどと伝わっています。

とはいえ、この戦いには不明な点が多く、後世の創作ではないかとも言われていますよ。

信玄の死去と天下の移り変わり

家康の大敗で幕を閉じた三方ヶ原の戦いですが、その後、信玄はさらに西へと進撃を続けました。しかし、運命とは本当にわからないものです。戦いからわずか3ヶ月半後の元亀4年4月12日(1573年5月13日)、信玄は病を悪化させ、進撃を中止して本国・甲斐(山梨県)へと引き上げる途中にこの世を去りました。

信玄が亡くなったことで、勢力を盤石なものとしたのが織田信長。信玄の跡を継いだ息子・武田勝頼(たけだかつより)を、長篠の戦いで撃破すると、その後滅亡させたのです。家康は信長と連合し、武田軍撃破に大きな役割を果たしました。しかしその信長もこの直後に本能寺の変が起きて倒れることとなり、天下は豊臣秀吉主導へと移り変わっていくのです。

三方ヶ原の戦いでの大敗は、家康の大きな経験となった

image by PIXTA / 23455363

信長に従っていた家康は、その後は秀吉に従い、長い雌伏の時を過ごしました。秀吉の死後にようやく巡って来た天下をものにした彼ですが、彼の生涯での三大危機のひとつとして、この三方ヶ原の戦いが挙げられています。ここで大敗した経験は、彼の天下取りに大きな意味を成したことでしょう。挫折が成功の原動力となったのです。

1 2 3 4
Share: