御成敗式目はなぜ制定された?時代背景や歴史的意義は?
御成敗式目が制定されたのは鎌倉時代。長年、都の貴族たちに虐げられ、つらい思いをしてきた武士たちによる時代の始まりを告げる新しい法律です。しかしなぜ、新しい法律を作る必要があったのでしょうか。まずは御成敗式目制定の時代背景や流れについて詳しく見ていきましょう。
時代背景:幕府管轄の土地の増大と地頭
御成敗式目(ごせいばいしきもく)は1232年(貞永元年)に制定された、武士政権のための法律です。貞永式目(じょうえいしきもく)と呼ばれることもあります。
鎌倉幕府が成立したのが1185年。御成敗式目はそれよりだいぶ後に作られた法律ということになります。
式目とは、箇条書きで記された制定法のこと。「目」は目録や条目という言葉から来ています。
制定の少し前の1221年(承久3年)は歴史的大事件「承久の乱」が起きた年。この戦で武士たちは朝廷を破り、鎌倉幕府の権力はゆるぎないものになります。
承久の乱で鎌倉幕府は、時の権力者・後鳥羽上皇と戦い、勝利しました。そして上皇や公家や、上皇に味方した武士たちから土地(荘園)を没収。幕府管轄の土地は相当な広さになりました。
しかし土地というものはほったらかしていても儲かりません。ちゃんと管理して、農作物を作らせなければ。そこで幕府は「地頭(じとう)」という役人たちを地方に派遣し、各地域を管理させたのです。
このような土地の広がりと地頭の誕生が、御成敗式目制定のきっかけとなりました。
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制定理由:正しい裁判を行うための基準に
当時、地頭になったのは、承久の乱で幕府とともに戦った御家人たち。彼らはあくまでも「年貢の徴収係」であって、土地を与えられたわけではありません。
しかしだんだんと、土地を手に入れようと目論見み、領主たちとトラブルを起こす地頭も出てきます。
中には、地頭同士で揉め事を起こすケースも。ひとたび争いになると、立場や身分の違いなどから話がかみ合わず、平行線になってしまうこともあったようです。
こうした御家人たちの争いや土地トラブルは日に日に多くなり、日本のあちこちから揉め事が幕府に持ち込まれるようになります。幕府にとってもマイナスです。
そんな中、何かしら争いが起きた時の裁きの基準になるよう制定されたのが御成敗式目でした。
それまでも、朝廷や貴族、公家たちのための法律・法典はありましたが、内容が難しく、専門家でなければ分からないようなものが中心。そんな法律ばかりあっても、武士たちのためになりません。武士にも分かりやすい、土地問題を解決するための基準となる法律が必要だったのです。
キーパーソン:北条泰時とはどんな人物?
御成敗式目の制定に力を注いだ北条泰時とはどんな人物だったのでしょうか。
北条泰時は、武士のカリスマ・源頼朝の正室である北条政子の弟である北条義時の長男。政子にとっては甥っ子にあたります。
父・北条義時は承久の乱で武士たちを率いた大人物。そんな義時が1224年、この世を去ります。
そして泰時は北条政子から任命され、鎌倉幕府第3代執権の職に就くのです。
泰時は正室の子ではなかったため、この任命は本人にも周囲にとっても意外なものだったのかもしれません。この時、泰時はすでに42歳になっていました。
翌年の1225年に、北条政子も亡くなります。
父しかり、叔母しかり。武士たちの頂点に立ち、幕府を仕切っていた重要人物たちが姿を消す中、泰時は新しい幕府の在り方を模索し始めます。
叔父の北条時房を執権に指名し二大執権体制に。さらに13人のメンバーからなる評定衆と呼ばれる政務組織を編成。執権一人が絶対的な権力を持つのではなく、有力者たちと連携しながら政務を行う仕組みを作ります。
おそらく義時は、自分には父や叔母のような、鶴の一声で大勢の武士を震え上がらせ引っ張っていくような力はない……と考えたのでしょう。だからこそ、御成敗式目のような法律の必要性を強く感じたのかもしれません。
御成敗式目の内容とは?51の条項には何が書いてある?
承久の乱の後、日本全国に広がった土地の管理問題を中心に訴訟やトラブルが起こるようになり、問題山積みで暗雲が立ち込めていた鎌倉幕府。北条義時や政子のような偉大な功績を持つ重鎮がいなくてもスムーズに運営できるよう、基準となるルールが必要であると悟った北条泰時によって、御成敗式目は生み出されました。泰時が目指した「誰にでも理解できる分かりやすい、武家政治のための法律」とは、どんな内容だったのでしょうか。