日米修好通商条約の内容
井伊直弼とハリスの間で結ばれた日米修好通商条約では、次の内容が定められました。まず、開港地として箱館に加え神奈川・長崎・新潟・兵庫を追加。神奈川の開港後に下田は鎖港としました。
外国人は開港場に設けられた居留地に住むことが定められ、日本人が居留地で外国商人と自由に貿易することができるようになります。
外国人の犯罪については、所属国の領事が裁判を行う領事裁判権を相手国に認め、日本側が関税を自由に決めること(関税自主権)ができないなど日本にとって不利な不平等条約でした。
日米和親条約でアメリカに認めた片務的最恵国待遇も継続します。安政の五カ国条約に対し、朝廷の公家たちや孝明天皇は強く反発。尊王攘夷運動の背景の一つとなりました。
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居留地貿易の開始と物価の高騰
通商条約の締結により、外国商人と日本人の貿易がはじまりました。外国商人は居留地から出られないため、日本商人が居留地に売り込みにやってきます。日本商人は生糸や茶、蚕卵紙などを持ち込みました。ほかにも、食料品を居留地に持ち込みます。外国商人は、毛織物や綿織物、武器などを日本商人に販売しました。
開港後、貿易額は増加の一途をたどり、1867年には開港時の5倍にまで膨れます。輸出が急増することで、日本国内で必要な品物の生産が追い付かず、品薄となりました。中でも、生糸などの輸出関連品を中心に物価が高騰します。それにつれて、米の値段も騰貴したため、全国各地で世直し一揆が多発しました。
また、海外との金銀の交換レートの差を利用され、多額の金が海外に流出します。幕府は金の含有量を減らした万延小判を発行して金銀価格差を是正しようとしました。
安政の大獄と桜田門外の変
井伊直弼の強引な政治手法は人々の反感を買っていました。井伊は幕府の権威を守るため、反対派を容赦なく弾圧します。また、13代将軍家定の急死に伴って14代将軍をめぐる将軍継嗣問題も発生しましたが、これに対しても大老となった井伊は反対派を弾圧しました。
1858年から1859年にかけて、井伊直弼が行った反対派に対する大規模な弾圧を安政の大獄といいます。安政の大獄により徳川斉昭や一橋慶喜、松平慶永、山内豊信らが隠居させられました。また、吉田松陰や橋本左内らは死刑となります。岩瀬忠震や川路聖謨ら阿部正弘が登用した幕府官僚たちも隠居させられました。
安政の大獄は井伊に対する反感をさらに高めます。1860年3月、井伊直弼は登城の途中に江戸城桜田門の付近で水戸藩浪士に襲撃され討ち取られてしまいました(桜田門外の変)。井伊直弼の死は幕府の権威を大きく低下させます。
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