安政の改革
ペリーへの回答を翌年にひき延ばすことに成功した阿部は、国内体制の立て直しを図りました。阿部は薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭ら諸大名たちに開国に関する意見を聞き、朝廷にも事態を報告します。これにより、挙国体制を作り上げようとしました。
次に、能力を重視した人材登用を行います。阿部により登用されたのは韮山代官となる江川英龍や外交面で活躍する岩瀬忠震などですね。江川は韮山に反射炉を作るなど技術革新の面で成果を挙げます。
また、講武所や海軍伝習所を立ち上げ、武力の強化にも着手しました。長崎の海軍伝習所では、のちに薩長同盟の仲介などで名を馳せる坂本龍馬らが操船技術を学びます。
他にも江戸湾にはペリー艦隊の再来に備えた台場(品川台場)が築造されるなど、当時実現可能な案を可能な限り実行に移した印象ですね。
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ペリーの再来航と日米和親条約
1854年、予告どおりペリーが再び浦賀沖に姿を現しました。このときは、軍艦の数を前回の倍である7隻(のち9隻)に増強します。ペリーの並々ならぬ意欲が伺えますね。ペリー一行と幕府代表は1か月に及ぶ交渉を行いました。
幕府は、薪水給与や難破船の救助は認めるが、通商はできないとペリーに告げます。ペリーは通商要求については取り下げました。交渉の結果、日米和親条約が締結されました。
この条約で幕府は下田・箱館の開港と薪水給与を認めます。また、日本はアメリカに対して片務的最恵国待遇を認めました。
最恵国待遇とは、もし、日本が他の国と条約を結んだときに、日米和親条約よりも有利な約束をした場合、アメリカにも自動的にその内容が認められるということ。
片務的というのは、日本はアメリカに最も良い条件を提供しなければなりませんが、アメリカにその義務はないことを意味します。こうして、日本の鎖国は終わりました。
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通商の開始と幕末の動揺
ペリーは日本を開国させることを優先したため、日米和親条約では通商について定めることはありませんでした。1856年、下田に領事として着任したハリスは、アロー戦争を利用して日本と通商条約を結ぼうと画策。1858年に日米修好通商条約を締結することにせいこうしました。開国と貿易の開始は日本国内の経済に大きな影響を与えます。幕政を主導していた井伊直弼は、幕政への批判を厳しく弾圧する安政の大獄を行いましたが、強い反発を買い、桜田門外の変で殺害。幕府の権威は大きく低下します。
日米修好通商条約の締結と安政の五カ国条約
1856年、アメリカ領事として赴任したハリスは、ペリーが果たせなかった通商条約の締結を目指します。このころ、中国ではアロー戦争が起きていました。イギリス・フランス連合軍が清国軍を打ち破り、首都北京へと迫ります。戦争の状況はハリスにも、幕閣にも届いていたことでしょう。
1857年、ハリスは下田に入港したアメリカ軍艦の力を背景に、13代将軍家定との謁見にこぎつけます。ハリスはアロー戦争の余勢をかってイギリスやフランスが日本に攻め込んでくる可能性を説き、幕府に通商条約締結をせまりました。
1858年、大老井伊直弼は通商条約調印に踏み切ります。これにより、日米修好通商条約が結ばれました。日米和親条約と同じ内容でオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも通商条約を調印したので、安政の五カ国条約ともいいます。
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