新田義貞の生涯(2)南北朝時代の激動の中で
鎌倉幕府は当時、新田氏のような豪族たちに重税を課し、かなり低い扱いをしていたと伝わっています。貧しい生活を強いられ、不満を募らせながらも、長い間幕府に従ってきた新田義貞。ここまで耐えたのですから、この後もずっと幕府に従うという選択肢もあったはずです。しかし義貞は倒幕に動きます。この先どうなるのか、確かなことは何もわかりません。上野国から鎌倉を目指す道中、不安もあったはず。それでも未来を信じ同志たちを信じて、ついに大仕事を成し遂げた後、彼はどのような道をたどったのでしょうか。
後醍醐天皇による「建武の新政」と新田義貞
鎌倉幕府を倒した新田義貞は、すぐさま、後醍醐天皇に事の次第を知らせる使いを出します。
しかし、後醍醐天皇からの連絡はぷっつり。しかも、後醍醐天皇が京都に入ったことを知った武士たちが、次々と鎌倉を離れ、京都へ移動。倒幕の一番の功労者であるはずの新田義貞はおいてけぼり状態です。
この一連の動きの裏には、あの忌々しいライバル・足利尊氏の姿がありました。地位も身分も低く、官位も肩書もない義貞より、名門の足利尊氏のほうが人気が高かったのです。
幕府が落ちると、武士たちはあっさり義貞のそばを離れ、尊氏の嫡男・千寿王に鞍替え。足利氏にすりよって行きます。足利尊氏は新田義貞があくせくと鎌倉攻めをしていたころ、京都に入り、都を制圧していたことも、彼の人気を高める要因となっていました。
そんな新田義貞の心の内などつゆ知らず、後醍醐天皇は京都入り。組織や財政を根本から立て直し、「建武の新政」と呼ばれる政策を行います。
新政下においては、義貞にも、従四位という位が与えられました。
もともと、腐敗した幕政に不満を抱いていた後醍醐天皇。新しい政治に対する意気込みは相当なものでしたが、その内容は斬新すぎて複雑。誰もついてこれません。
文武に優れた義貞も、後醍醐天皇の思想についていくことはできず、政治はあまり得意ではなかったとみられています。
後醍醐天皇に失望し始めた人々が次に期待を寄せたのは、あの足利尊氏でした。
足利尊氏との対立と朝廷分裂(南北朝時代)
やがて足利尊氏は、後醍醐天皇と対立するようになります。
1335年、北条氏の残党が起こした乱の鎮圧のため、足利尊氏は独断で東へ。飼い犬に手をかまれたとでも思ったのか、これを「離反」と見た後醍醐天皇は、義貞に尊氏討伐を命じるのです。
後醍醐天皇は足利尊氏の対抗馬として新田義貞を担ぎ上げようとしていた、とも考えられています。楠木正成は戦上手の軍神ではありましたが、正式には武士ではなく土豪という説が濃厚。足利尊氏討伐の旗印には新田氏が適任であると、後醍醐天皇はそう考えたのでしょう。
義貞と尊氏は、関東や京都など各地で激戦を展開。義貞は楠木正成や北畠顕家などそうそうたるメンバーとともに尊氏討伐に動きます。
しかし足利尊氏は強かった。一時は九州まで敗退しますがすぐに体制を立て直して切り返し。楠木正成を討ち取り、義貞も退けて勝利をものにします。
1336年、後醍醐天皇は足利尊氏にあっさり投降。いったんは和解しますが、後醍醐天皇が三種の神器を持ち出したまま返さず(返したと見せかけて実はそれ偽物なのよと言い出したり)、そのまま奈良の吉野に逃亡し、事態はますますややこしいことになります。
後醍醐天皇は自分が正統な皇位継承者であると主張。吉野に朝廷(南朝)を開きます。
もともと京都にあり、足利尊氏のバックアップのもと即位していた光明天皇と、吉野の後醍醐天皇。世にいう「南北朝時代」の始まりです。
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戦いに敗れて越前へ~再起を目指すもあえなく戦死
後醍醐天皇が何やら勝手なことをしている最中の1336年、湊川の合戦(現在の兵庫県神戸市中央区のあたり)に敗れ、敗退を余儀なくされた新田義貞。勝敗は見えているというのに、足利尊氏は執拗に追いかけてきます。
力の差は歴然でした。
この戦いの前に、楠木正成が後醍醐天皇に「足利尊氏との和睦」を進言していますが却下。もしあの時、和睦に動いていたら……そう言ってももう始まりません。
義貞は味方の軍を逃がすべく、自らしんがり(殿軍)となって奮戦。敵に包囲され、馬が矢を受けてもなお、代々伝わる宝刀・鬼切と鬼丸という太刀を両手に持って足利軍の前に立ちはだかったといわれています。あまりの気迫に、足利軍は義貞に近づくことができなかったのだそうです。
多くの犠牲を出しながら、命からがら京都の近くまでたどり着いた義貞でしたが、この時すでに、京都は尊氏の手によって制圧されていました。尊氏との一騎打ちを望んだ義貞でしたが叶わず、義貞は転戦しながら北陸へと逃れていきます。
北陸の地で再起を目論んだ義貞でしたが、1338年、越前国藤島(現在の福井県福井市のあたり)にて戦死。再起は叶わず、38年の生涯を終えることとなります。
新田義貞~鎌倉幕府滅亡の立役者なのに影の薄さは否めない
かなりの活躍ぶりなのに、どことなく影が薄い印象の新田義貞。でもそれは、新田義貞が地味なのではなく、この時代のほかの人々が秀でているため、と見ることもできそうです。ライバルと言われた足利尊氏は室町幕府を開き征夷大将軍となり、武士ではない楠木正成は軍神と言われるほどの名将と崇められ、後醍醐天皇は自分で朝廷を開いてしまうという強烈な個性の持ち主。みんなキャラが強すぎます。歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もし新田義貞が戦国時代に生まれていたら……ふと、そんなことを考えてしまいました。