日本の歴史鎌倉時代

5分でわかる「鎌倉時代」約140年間の大まかな流れを元予備校講師がわかりやすく解説

鎌倉幕府の力が強まった承久の乱

実朝の死により将軍が空席となった鎌倉幕府は、後鳥羽上皇に対し皇子を鎌倉に派遣してもらうよう願い出ます。しかし、上皇は幕府の申し出を拒否。やむなく義時は頼朝の親戚にあたる九条道家の子を将軍として迎えました。

この一件の後、朝廷と幕府の対立は深まります。1221年、後鳥羽上皇は京都に兵を集めて挙兵。全国の武士たちに北条義時を討伐せよとの院宣を下しました

後鳥羽上皇挙兵の知らせを聞いた北条義時と北条政子は御家人たちを鎌倉に呼び寄せます。集まった御家人たちを前に、北条政子は「頼朝が御家人たちに与えた恩は山よりも高く、海よりも深い」と演説。御家人たちを一致団結させることに成功しました。

鎌倉に集まった幕府軍は北陸・東山・東海の3路に分かれて京都を目指します。義時は御家人たちに勝利後の恩賞を確約し京都へと進撃させました。

戦いは幕府軍の圧勝に終わります。勝った幕府は上皇方についた貴族や武士の所領を没収し戦いに貢献した味方の御家人たちに分け与えました

北条義時・泰時による諸制度の整備

承久の乱の勝利後、北条義時は京都に六波羅探題を設置します。六波羅探題の職務は朝廷の監視と京都内外の警備などでした。1224年、北条義時が急死したため、子で承久の乱のときに幕府軍を率いた北条泰時が家督を相続。第3代の執権となります。

泰時は将軍や執権による独裁を行わず、集団指導体制に移行させようとしました。まず、執権と並ぶ地位として連署を新設します。次に幕府の最高政務機関として評定衆を設置しました。評定衆は政治を行う政所に出仕し、幕府の意思決定に関与します。評定衆の会議で決まったことは、将軍に報告されました。

義時は北条氏があくまでも御家人の一家に過ぎないことを自覚し、北条氏だけが政治を独占しているように見られないようしたかったのかもしれませんね。

御成敗式目の制定

執権就任から10年後、北条泰時は日本で初めての武家法である御成敗式目を制定します。このころ、すでに律令国家以来の伝統を引き継ぐ公家法と、荘園領主が定めた法である本所法が存在しました。泰時は、公家法や本所法を否定することなく、それらの法律と別に武士のための法である御成敗式目を制定します。

御成敗式目の基本理念となったのは、初代将軍頼朝以来続く先例と、武家社会の慣習や道徳などで構成される道理でした。あくまで武家のための法律なので、適用範囲は幕府の支配領域にいる武士や武士と裁判沙汰になった荘園領主などに限られます。

御成敗式目では守護や地頭の任務、所領の支配や相続、重罪人の処罰などについて定められました。最も重要なのは土地に関する決まりごと。20年以上土地を継続支配すれば、過去の持ち主などに関わらず、所有権が認められる知行紀年法などが成文法として定められました。

得宗専制と元寇

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北条泰時が作り上げた有力御家人による評定を中心とした執権政治は5代執権北条時頼の時代以降、徐々に変質。得宗専制とよばれる仕組みに変化しました。13世紀後半、元の皇帝フビライ=ハンは、鎌倉幕府に使者を派遣し服属を要求します。しかし、8代執権北条時宗はフビライの要求を拒否しました。そのため、元軍は2度にわたって日本に攻めてきます。二度の元寇に勝利した幕府は、三度目の来襲に備え防備を固めました。

得宗専制の始まり

5代執権となった北条時頼は、泰時が作り上げた執権政治を土台として政治基盤を固めました。1249年に引付衆を設置し、裁判の迅速化を図ったのは土地をめぐる争いを裁くことが幕府にとって重要事項だったからです。

その一方、反対勢力には厳しい対応を取りました。1246年、北条時頼は、時頼排除を企てた藤原頼経(摂家将軍初代)を追放します。1247年、有力御家人である三浦泰村を宝治合戦で滅亡させました。

1252年、時頼は頼経の子で将軍となっていた藤原頼嗣が時頼排除に加担していたとして、将軍を辞めさせます。かわりに、皇族を京都から迎えて将軍としました。京都から来た将軍には実権がありません。その上で、時頼は要職を北条一門で固めました

1256年、時頼は病のため執権の職を退きます。しかし、時頼は北条一門のトップ(得宗)として幕府の実権は握り続けました。北条一門のトップである得宗が、執権以下の地位を左右し、幕府政治を動かしたので得宗専制といいます。

二度にわたった元寇

日本で鎌倉幕府が政治を行っていたころ、ユーラシア大陸ではモンゴル帝国が急成長していました。モンゴル帝国の領土のうち、中国を中心とする地域を治めていたフビライ=ハン元の建国を宣言。東アジアや東南アジアで積極的に領土を拡大します。

13世紀中ごろ、朝鮮半島の高麗を服属させたフビライは、日本も元に服属させようとたびたび使者を派遣しました。しかし、8代執権の北条時宗は要求を拒否します。

日本に服属の意思がないと判断したフビライは1274年、元と高麗の軍からなる日本遠征軍を派遣しました。元・高麗軍を迎え撃った幕府軍は元軍の集団戦法に苦しみます。戦いは2週間程度で終わり、元・高麗軍は一時撤退しました(文永の役)。

戦いの後、フビライは再び日本に使者を送り服属を迫りました。北条時宗はフビライの使者を鎌倉で処刑し、徹底抗戦の意思を見せます。

1281年、再び元軍が日本に迫りました。前回と異なり、博多湾に防塁などの防御施設を作っていた幕府側は元軍相手に有利に戦います。その後、暴風雨などにより元軍は目的を果たせぬまま撤退しました(弘安の役)。

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