日本の歴史鎌倉時代

5分でわかる「鎌倉時代」約140年間の大まかな流れを元予備校講師がわかりやすく解説

幕府が行った元寇後の対策

鎌倉幕府は文永の役と弘安の役、二度にわたった元軍の攻撃を退けました。ところが、中国からの情報によれば、元は3度目の日本遠征を企図しているとのこと。幕府は3度目の来襲に備えて防御態勢を整えます。

まず、文永の役後に九州の御家人に課していた異国警固番役を強化しました。弘安の役後は、御家人ではなくても九州に所領を持つ寺社、非御家人らも異国警固番役に動員されます。

次に、鎌倉幕府は九州に鎮西探題を設置しました。鎮西探題は九州地方の御家人の統率と、九州での行政や裁判などを担当します。これは、御家人たちが訴訟のために長期間九州を離れることを防ぐためでもありました。

1294年にフビライは死去しますが、元の襲来を警戒する幕府は滅亡まで異国警固番役を継続します。

鎌倉幕府の滅亡

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鎌倉時代の後半、幕府を支えていた中小の御家人たちは元寇による負担や経済情勢の変化などにより経済的に苦しみました。幕府は対策として永仁の徳政令を発布しますが、事態は改善できません。13世紀前半、幕府による皇位継承への介入などを嫌った後醍醐天皇が討幕の為、挙兵。足利尊氏や楠木正成、新田義貞らが後醍醐天皇に呼応し鎌倉幕府を滅亡に追い込みます。

北条氏の権力独占と中小御家人の困窮

元寇が起きたころ、日本では御家人たちに大きな変化が起きていました。一つは北条一門や北条氏家臣による権力独占です。泰時の時代、全体の3分の1程度だった北条氏一門の守護が、元寇直後には過半数を越えています。有力御家人の安達泰盛は北条氏の家臣によって滅ぼされました。有力御家人たちは、北条氏の独裁に不満を募らせます。

もう一つは、中小の御家人たちの経済的困窮です。蒙古襲来の恩賞が少なかったことや分割相続の繰り返しで所領が細分化していたことなどが主な原因でした。経済的に苦しんだ中小御家人は自分たちの土地を担保に借金します。借金が返済できなくなった御家人たちは次々と所領とを失いました

鎌倉幕府は困窮した中小御家人を救うため永仁の徳政令を発布します。永仁の徳政令では御家人同士の土地の売買契約は認めますが、非御家人や武士ではない人々(主に高利貸し)に質入れした土地については、無償で売り主である御家人たちに返還すると定めました。しかし、根本的な解決にはつながらず、中小御家人は幕府に対して強い失望感を抱きます

後醍醐天皇の挙兵

1318年、朝廷では後醍醐天皇が即位しました。後醍醐天皇は院政を排除し記録所を再興。自ら政治を行う親政を始めました。後醍醐天皇は天皇中心の政治を行うべきだと考えます。そのためには、朝廷よりも強い力を持つ幕府を滅ぼさなければなりませんでした。

1324年、後醍醐天皇は側近と共に討幕の計画を練ります。しかし、密告により討幕計画が幕府に漏れて失敗に終わりました(正中の変)。それでも、後醍醐天皇は討幕をあきらめません。

1331年、後醍醐天皇は討幕を目指し笠置山で挙兵します。しかし、戦いに敗れ後醍醐天皇は捕らえられました(元弘の変)。その後、天皇は隠岐に流されます。ところが、1333年、後醍醐天皇は伯耆(鳥取県)の武士である名和長年の助けを借りて三度挙兵しました。

鎌倉幕府の滅亡

後醍醐天皇の度重なる挙兵に呼応したのが河内国の悪党、楠木正成です。悪党とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した地頭や非御家人の新興武士たちのこと。悪党は幕府や荘園領主の命令に従わず、武力で抵抗します。

そうした悪党の一人だった楠木正成は現在の大阪府にあたる河内国で挙兵。攻め寄せる幕府軍と激しい戦闘を繰り広げました。

幕府は後醍醐天皇や楠木正成を攻撃するため、鎌倉から大軍を下向させます。その軍を率いたのが足利尊氏でした。有力御家人である足利尊氏も、幕府に対して不満を募らせています。

1333年、足利尊氏は後醍醐天皇への帰順を表明。六波羅探題を攻撃し、攻め滅ぼしてしまいました。さらに、関東の御家人新田義貞が手薄になった鎌倉を急襲。得宗の北条高時以下、北条氏一門を攻め滅ぼし、鎌倉幕府を滅ぼします

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