ライバル前田利家との対決
成政はおとなしく秀吉に恭順の姿勢を見せますが、内心では「信長公の恩を忘れ、織田家を乗っ取ろうとする佞臣」だと思っていたことでしょう。成政自身、信長によって身分を引き上げられ、国を任せられるほどの地位に就けてもらったわけですから、信長への感謝と報恩の気持ちは誰より強かったはずです。
1584年、信長の次男織田信雄と徳川家康が結託して兵を挙げた際、成政は織田家再興の期待を込めて信雄に味方しました。秀吉対信雄・家康連合軍との間で戦われた小牧の役の際、成政は後方支援のために隣国能登の前田利家に対して攻勢を掛けています。
信長時代には同じ府中三人衆として君臨し、ともに柴田勝家の与力として戦陣でもライバル関係でしたが、やはり成政としては勝家を裏切って秀吉側についた利家の変節ぶりが許せなかったのでしょう。
9月、成政は1万5千の大軍をひそかに進発させると、能登国境にある末森城を急襲しました。城を守っていたのは前田家にその人ありと知られた奥村永福。激しい攻防戦で落城寸前まで追い詰めますが、永福も卓越した指揮ぶりで頑張り続けました。
急報に接した利家がついに後詰めに駆け付け、佐々勢は挟み撃ちにされる形となり、不利を察した成政は粛々と陣を引き払いました。敗戦ではなく堂々と整然と引き上げていったようです。
引き上げる途中に敵方の鳥越城を攻略するなど、ただでは転ばない成政の戦略が見て取れますね。
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成政の決意を示した「さらさら越え」
利家との前哨戦が終わり、さあこれから!という時に、成政にとって思いもよらない知らせがやってきました。
なんと信雄が独断で秀吉と和睦したというのです。徳川家康もまた戦いをやめてしまったと。ハシゴを外された形になった成政は困惑します。しかし成政の行動に迷いはありませんでした。「ならば、俺と家康殿で秀吉に決戦を挑むのみ!」
なんと自らが家康の本拠浜松へ出向き、家康に再起を促そうとしたのです。しかし浜松へ赴こうにも東は上杉領内、西は前田利家の領国。残るは南へ向かって急峻な立山連峰を越え、信州へ出るしかありません。ちょうど季節は厳冬の時期で、冬の立山越えは危険極まりないものでした。
強く決意した成政は、わずかな部下を連れて立山へ向かいました。しかし危険と苦難の連続で、大雪や雪崩などによって犠牲者も出たといいます。ザラ峠という難所を越え、生死を彷徨いながらも浜松へ到着した成政一行は家康と会見しますが…
家康の返答は色良いものではありませんでした。それはそうでしょう。和睦した今、あえて挙兵しても大義名分など立ちませんし、成政の理想に付き合っている暇もありません。
成政たちは失意のうちに浜松を後にし、続いて信雄を説得しようとするも失敗。致し方なく元来た道を戻っていったそうです。しかし異説があって、実は上杉領内をあえて通って帰ったのでは?と唱える専門家もいらっしゃるそうで、様々な研究がなされているようですね。
いずれにしても万策尽きた成政は秀吉に徹底抗戦するか、降伏するしかなくなりました。
富山の役
翌年、豊臣秀吉は10万の兵を率いて越中へ進軍してきました。東からは上杉軍も国境を越えて続々とやって来ます。成政は徹底抗戦のつもりで粘り強く戦いますが、衆寡敵せず、信雄を通じて恭順の意を示しました。
成政は剃髪して秀吉軍に降伏したといいますが、その姿を見て前田勢が笑い飛ばしたといいますから、成政はさぞかし無念だったことでしょう。
この時に成政が詠んだ歌があります。
「何事も、かはりはてたる世の中を、知らでや雪の白く降るらむ」
何もかも変わってしまった世の中なのに、そうとは知らないからだろうか。去年と同じように雪は白く降っている。
本能寺の変で信長が亡くなり、織田家再興の夢も絶たれた今、何もかも変わってしまったこの世に未練などあろうものか。成政の心情を慮ると無常感めいたものが感じられますよね。
まさに成政はこの時に「このまま死んでしまってもいい」と感じていたのかも知れません。結局、成政はその領国を大幅に削られ、新川郡のみ与えらることになりました。