日本の歴史江戸時代

寛永通宝とは?江戸時代に流通した貨幣の歴史に迫る

寛永通宝とは、徳川幕府が開かれてから幕府管理の下で製造されたお金(硬貨)のことです。江戸時代は265年続きましたので、この間、かなりの数の寛永通宝が作られたと思われますが、現存するものは状態があまりよくないため、古銭ショップやバイヤーさんによれば、きれいに「寛永通宝」の書体がきれいに残っているものは、鑑定次第でかなり高値で取引されることもあるとか。家の床下から古い硬貨が出てきたらウルトラチャンス!今回はそんな「寛永通宝」について詳しく調べてみたいと思います。

寛永通宝の歴史とは?金貨・銀貨に続け!銅製の穴あき貨幣

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寛永通宝(かんえいつうほう)は江戸時代に広く流通していた銭貨(せんか)です。江戸時代を通じて長く使われ、日本全国で鋳造されかなりの枚数が流通しました。この貨幣の登場により、日本の貨幣が統一され、庶民の日常生活に浸透していくこととなります。そんな寛永通宝の歴史、辿ってみることにいたしましょう。

日本独自の銭貨を!苦労の末誕生した庶民のお金

江戸時代以前のお金事情はというと、銭貨はバラバラ。その地域地域で別々のお金が使われていたり、物々交換だったりと、品物をやり取りするときに何かと不便で不平等になりがちでした。

貨幣はあるにはありましたが、出回っているものは、中国から渡ってくる渡来銭がほとんど。永楽通宝(えいらくつうほう)と呼ばれる明王朝の貨幣がよく使われていましたが、とにかく銭に関しては統一したものがありませんでした。

江戸時代に入ると、徳川家康は金貨と銀貨を製造するための「金座」と「銀座」を設置し、高額な貨幣についてはかなり早い段階から統一を進めていました。

しかし、一般庶民が金銭や銀銭を使うことなどまずありません。庶民の暮らしには、銅銭の普及が不可欠でしたが、なかなか思うように進まず、江戸時代の最初の頃はまだ、金銭と銀銭に永楽通宝などを組み合わせて使っていたようです。

庶民向けの銭を全国で統一するとなると、相当な枚数が必要となります。材料をどう捻出するかなど、課題は山積みでした。

そして寛永13年(1636年)、銅の産出などの目処が立ったことなどから、銅銭を鋳造するための「銭座(ぜにざ)」が浅草の近くと近江(現在の滋賀県)にオープンし、本格的な銅銭の製造が開始されます。この時作成されたのが「寛永通宝」です。

材料はどこから?寛永通宝の鋳造場所とは

幕府は寛永通宝を安定供給するために、水戸や仙台、岡山、長州など全国各地に銭座を設けて寛永通宝の鋳造を指示します。

銭座は大忙しでしたが、何せはじめての統一銭貨。どれくらい作ったらよいかもわからず、初めのうちは作りすぎて価値が下がったり、足りなくなったりと、とにかく手探り状態だったようです。

現存する寛永通宝をよくよく観察すると、色合いや書体の太さなどに微妙な違いが見られます。銭座の場所によって、仕上がりにも違いがあったそうで、鋳造した地域がわかるよう裏面に文字が刻まれているものもありました。

紙幣と異なり、金属でできた硬貨ですから、そうそう破損することもありません。十分な枚数が流通したと判断されたのか、銅銭の鋳造が中断された時期も。鋳造枚数の記録は見つかっていませんが、万治2年(1659年)頃までに作成された寛永通宝はおよそ30億枚にものぼると推定されます。

寛文8年(1668年)、しばらく中断していた寛永通宝の鋳造が再開。鋳造技術も向上し、文字体の整った質のよいものを製造することができるようになります。これ以後に作成された寛永通宝を「新寛永(文銭)」と呼ぶことが多いです。反対に、それ以前のものを「古寛永」と呼びます。

新寛永の頃には、それまで銅銭の代わりに使っていた渡来銭(永楽通宝など)はほぼ消滅。当初の目的は果たされたことになります。

形は?大きさは?寛永通宝の基礎情報

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江戸時代は長いので、時代によってその価値や相場には変動がありますが、寛永通宝ができる前の金・銀・銅銭のバランスは、金1両=銀50匁=銭4000文と言われていました。

同じくらいの年代のお米の価値は、1升がだいたい20~25文だったと考えられています。

しかし、50年、100年と時が経つにつれ、お米の価値も2倍3倍と上がっているため、現代人の感覚で貨幣価値を見出すことは難しそうです。

では、寛永通宝はどれくらいの大きさなのでしょう。

現代の硬貨のような精密さはないので多少の誤差はありますが、直径だいたい24mmくらい、重さは3~3.5gくらいです。

材料不足に悩みながら作られ続けた寛永通宝

このようにして寛永通宝は江戸時代を通じて大量に製造され、庶民の暮らしに定着していきました。

一時期、銅の不足により、鉄製や真鍮製の寛永通宝も作られるようになります。ただ、鉄のお金はあまり評判がよくなかったとか。これを払拭するべく、明和5年(1768年)には、新規に4文銭が作られるようになりました。

価値は1文銭の4倍。これがなかなか好評だったようで、かなりたくさんの枚数が作成されます。

そして時代は江戸から明治へ。武士の時代が終わり、幕府がなくなって新しい政府が誕生。明治2年ごろまで寛永通宝は作られ続けていました。

また、新しい紙幣や通貨が作られるようになっても、しばらくの間、ほかの貨幣と同様に寛永通宝も流通し続けます。新政府が作成した硬貨が十分に流通するまでの間、人々は使い慣れた寛永通宝を好んで使っていたようです。

幕末に数多く出回っていた鉄製の寛永通宝は明治30年頃までに流通が廃止となりますが、真鍮銭はまだわずかながら出回っていました。その後、昭和28年に単位が改正され、円より下のお金(銭や厘)がなくなったため、寛永通宝の流通は完全にストップします。

300年近い年月、庶民に親しまれた寛永通宝。現在では古銭の収集家たちの間で売買され、コレクターたちの目を楽しませています。

実物を見学したいなら:日本銀行の貨幣博物館へ

寛永通宝の実際の流通枚数ははっきりとはわかりませんが、300億枚~400億枚は鋳造されたと考えられています。もしかしたらもっと作られたかもしれません。

たくさん流通してはいますが、寛永通宝は鋳造年や鋳造場所などによって200種類以上もの種類があります(大きさが少し違う、裏面に特定の文字が刻まれている等々)。製造された枚数が少なく希少価値が高いとみなされることも多いのだとか。その価値は、100円程度から数十万円とピンキリ。例え、ご自宅の床下から寛永通宝が出てきたとしても慌てず踊らず、どんな寛永通宝かじっくり観察してみましょう。

流通数が多いところから売買も盛んにおこなわれており、古銭ショップなどで実物を見ることもできます。でももし、購入目的でなくちょっとだけ寛永通宝を見てみたいんだけど、と思ったら、日本銀行金融研究所内にある貨幣博物館がおすすめです。

寛永通宝のほかにも、珍しい貨幣や実物の小判なども多数展示。日本のお金の歴史がぎゅっと詰まった興味深い博物館です。

場所は東京中央区日本橋。地下鉄三越前駅からすぐです。

銭形平次も愛用!花のお江戸の寛永通宝

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人気の時代劇「銭形平次」が悪者を退治するときピュッと鮮やかに投げる銭も「寛永通宝」。四角い穴の空いたお金を紐で腰に下げて歩く平次親分の大捕り物に胸躍らせた方もいらっしゃることでしょう。実際にああいう岡っ引きがいたかどうかはわかりませんが、とにかくそれほど、庶民にとって身近なお金だったということでしょうか。古銭には縁がありませんでしたが、手始めに貨幣博物館を覗いてみようかと思います。

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