室町時代戦国時代日本の歴史

信長の親衛隊にして猛将だった「佐々成政」を歴史系ライターがわかりやすく解説

越中国の国主となる

成政が各地の戦いに忙殺されている間にも、織田軍は北陸において進撃を続けていました。能登国(現在の石川県能登半島)の政治情勢が不安となり、上杉謙信七尾城を攻め掛かったという情報を得た信長は、織田の諸将に出陣命令を下します。柴田勝家羽柴秀吉前田利家、そして成政ら錚々たるメンバーが七尾城を救いに向かったのです。

しかし七尾城はあっけなく陥落。その事実を知らない織田軍は、精強を誇る上杉軍と対峙することになりました。謙信の卓越した戦術によって織田軍はさんざんに蹴散らされ、この手取川合戦と呼ばれた戦いで上杉の強さを思い知らされることになったのです。

しかし織田軍によってラッキーだったのは謙信が直後に病死したこと。またその後の上杉家の家督争いによって上杉軍が弱体化してしまったことにより、次の越中平定戦を楽に進めることができるようになったのです。

上杉によって領地を奪われていた神保長住は、織田軍を先導しつつ越中へ乱入。上杉軍や一向一揆勢を平らげた上で富山城に入りました。しかしその後、敵の捕虜になってしまう失敗を犯した長住が失脚。1581年、改めて成政が越中一国の国主となり。富山城を新たに居城として定めたのです。押しも押されぬ36万石の大大名でした。

越中の民衆を愛した成政

柴田勝家や丹羽長秀、佐久間信盛などと共に【八角将】という重臣の地位にあった成政。越中国へ入り、まず驚いたのは戦いで荒廃し、川の氾濫に苦しむ民衆たちの姿でした。

そこで成政はインフラの復興をはじめ、当時は暴れ川だった常願寺川神通川いたち川の改修に乗り出します。洪水対策をしなければ豊かな実りは期待できないし、民衆が安心して暮らせないだろうという配慮からでした。

現在も常願寺川に残る史跡「佐々堤(さっさてい)」がそれで、成政は陣頭に立って工事を指揮したそうです。戦いで強いだけの猛将だけではなく、民衆のために心を砕ける仁将としての側面も垣間見れますね。

また成政は「民が安んじて暮らせるように」との願いを込めて、富山城を安住城と名付けたそう。それが現在も富山城のそばにある「安住町」という地名で残っているのです。

本能寺の変と秀吉との対決

いよいよ成政の運命が変転する時が訪れます。信長の死をきっかけに引き起こされた政争の中で、彼は自身の行動によって運命を切り開かねばなりません。果たして成政はどのように決断するのでしょうか。

本能寺の変

1582年、上杉と直接対峙していた成政らの織田軍は、越中における最後の拠点魚津城を陥落させた勝利に沸いていました。しかし、そこへ飛び込んできたのが京都本能寺における変報だったのです。

動揺した織田軍諸将は、陣払いをして各自の領国へ向けて離脱していきました。後に残されたのは成政の部隊のみ。こうなれば上杉軍の反撃を予想して防衛体制を取らねばなりません。もちろん信長の弔い合戦にも、清州会議にも参加することができず、ひたすら越中を守り続けたのです。

やがて羽柴秀吉と柴田勝家の間で賤ヶ岳の戦いが起こります。この時も柴田勝家の与力でありながら動こうとはしていません。勝家が敗れて天下の趨勢が秀吉に傾くと、秀吉に恭順を誓って娘を人質に出していますね。

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明石則実