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蘭学者にして軍略家「大村益次郎」を元予備校講師がわかりやすく解説

動乱の幕末、長州藩兵を率い第二次長州征討や戊辰戦争で活躍した人物がいました。彼の名は大村益次郎。大村はもともと医者であり蘭学者でしたが軍事的にもきわめて優秀な能力を持っていたことが幕末の戦いで証明されます。戊辰戦争後、大村は新政府の高官となって日本陸軍の礎を築きました。志半ばで暗殺された後、後継者となった山県有朋によって日本陸軍がつくられます。今回は類まれな戦術家であり、日本陸軍の父といってもよい大村益次郎について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

蘭学者、大村益次郎(村田蔵六)

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1824年、大村益次郎は現在の山口県山口市に生まれます。大村益次郎という名は後に藩から与えられたもので、当初は村田良庵、村田蔵六などと名乗っていました。この記事では混乱を避けるため、大村益次郎で統一します。大村は豊後国日田の咸宜園で漢学など、大坂の適塾で蘭学などを学びました。大村は蘭学者を探していた宇和島藩の求めに応じ、一時、宇和島藩に出仕します。

生い立ちから青年期にかけて

大村は現在の山口市にあった鋳銭司村で村医者の子として誕生しました。防府で医学や蘭学を学んだ後、豊後国日田にあった咸宜園に入ります。

咸宜園は儒学者広瀬淡窓が幕府天領だった日田に開いた全寮制の私塾。咸宜園では儒学だけではなく数学や医学、天文学についても学ぶことが出来ました。高野長英も咸宜園で学んだ学生の一人ですね。

咸宜園は江戸時代最大規模の私塾で入学金を納めると、身分にかかわらず誰でも学ぶことが出来ました。2年ほど咸宜園で学んだ大村は1844年に帰郷します。

この年、オランダ国王が日本に対し、開国するよう勧告する書簡を送りました。着実に外圧が強まり、西洋事情に通じた蘭学者の価値が高まる時代が到来します。

適塾きっての秀才

1846年、大村は大坂の船場にあった適塾で学びます。適塾は蘭学者で医者としても有名な緒方洪庵が開いた塾でした。正式名称は適々斎塾。緒形洪庵の号に由来するといいます。

適塾は現代のわれわれが考える塾・学校とは大きく異なったものでした。塾生同士が互いに教えあい、切磋琢磨することが行われたからです。

適塾では月に6回ほど、会読と称される翻訳の時間がありました。翻訳の出来により3ランクの評価を受けます。

大村のほかにも大鳥圭介、佐野常民、高峰譲吉、橋本佐内、福沢諭吉など幕末維新期に活躍する多くの人材を輩出しました。中でも大村は高く評価され、4代目の塾頭になります。1850年、大村は父の求めにより帰郷。開業医となりました。

宇和島藩時代

帰郷から3年後の1853年、大村は宇和島藩にいた蘭学者の二宮敬作を訪ねるため宇和島を訪問します。その後、大村は宇和島藩の要請で宇和島藩に出仕することになりました。1853年といえばペリーが浦賀に来航した年です。

大村が登用され理由は目の前に現れた欧米の「黒船」に対処するため、海外事情に通じた蘭学者の需要が高まったからでしょう。

大村は宇和島藩で西洋兵学や蘭学の講義を行いました。また、宇和島北部での砲台建設や長崎での軍艦研究にも携わります。

長崎滞在中、シーボルトの娘であるイネと出会いました。のちに、イネは大村が暗殺されたときに最期を看取ることになります。

さらに大村は宇和島で洋式軍艦を模倣した小型船を建造しました。国産初の蒸気船は薩摩藩によるものでしたが、これとほぼ同じころに造船に成功しています。大村の蘭学力が遺憾なく発揮された結果でした。

長州藩での活躍

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宇和島藩での活躍が認められた大村は、宇和島藩に所属しながら幕府に取り立てられ、蕃書調所や講武所の教授となりました。長州藩での蘭学書の会読で長州藩の有力者、桂小五郎と出会います。これが縁となり、大村は長州藩士となりました。長州藩では藩校の明倫館で講義を行う一方で藩の軍備増強に関与。幕府による第二次長州征討に勝利に大きく貢献しました。

幕府役人としての出世

1856年、大村は宇和島藩主伊達宗城に随行し江戸に登りました。江戸に就いた大村は麹町に私塾を開校。蘭学や兵学、医学を教えます。大村の評判を聞いていた幕府は大村を宇和島藩所属のまま、蕃書調所の教授方手伝にスカウトしました。

蕃書調所とは、幕府直轄の洋学研究機関のこと。ペリー来航後に開かれたもので、欧米に対抗するため蘭学だけではなく西洋の学問一般を学ぶ必要があると考えた幕府がつくった最先端の洋学研究機関でした。

1857年11月には築地に置かれていた幕府の講武所で教授となります。講武所は幕府が設置した軍事機関で剣術や洋式兵学、砲術などを教えていました。

大村は講武所で最新の兵学書の翻訳、講義を担当。西洋軍学の第一人者として高く評価されていたことが伺えます。

長州藩での軍事改革

1858年3月、大村は江戸の長州藩上屋敷で開かれた蘭書の会読に出席しました。この時、大村は長州藩の有力者である桂小五郎と知り合います。これが縁となり、大村は故郷である長州藩にスカウトされ藩士となりました。

長州藩士となった大村は藩の西洋兵学研究所の博習堂のカリキュラムに変更を加え、重要地点である下関の海防調査を実施します。

1863年から1864年にかけて、大村は長州藩の軍事関係の要職につきながら藩校の明倫館で西洋兵学を講義。さらには製鉄所の建設にも携わるなど精力的に活動します。

また、高杉晋作が組織した奇兵隊をはじめとする諸隊の編成も実行。長州藩の軍事力を高めました。藩から大村益次郎の名を与えられたのはこのころです。

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