室町時代戦国時代日本の歴史

信長の親衛隊にして猛将だった「佐々成政」を歴史系ライターがわかりやすく解説

肥後国一揆と悲劇の結末

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国主の座から一気に転落してしまった成政でしたが、その後の運命はまだ彼を見放してはいなかったようです。再びの彼の活躍と。その後の悲劇を紹介していきたいと思います。

九州征伐によって再び国主に返り咲く

富山の役のあと、大坂城へ移ってきた成政は秀吉の側近ともいえる御伽衆に加わりました。そして未だ収まらない九州の騒乱を鎮めるべく、成政にも九州征伐の命が下ったのです。

1587年、秀吉の弟秀長の軍に加わった成政は豊後を抜けて日向に入りました。そして根白坂の戦いで決定的勝利を収めた豊臣軍は、引き続いて薩摩へ攻め入ろうとしたところで島津家の降伏を受け入れたのです。そこには成政の島津への取りなしがあったようで、降伏を申し入れた島津義久は、以降は豊臣政権の下に服属することになりました。

そして九州の知行割を実施した秀吉は、なんと成政を肥後の国主に任じたのです。成政は戦いも強く、人望もあり、内政にも長けた人物でしたから、うってつけの登用だと思われたのでしょう。

しかし肥後は昔から力の強い国持ち大名が存在しなかったため、独立性の強い国衆たちがひしめき合っている国でした。このような国を万事うまくまとめるのは成政であっても難しいことだったでしょう。

国衆とは在地の武士のことで、国人や土豪とも呼ばれていますね。

ちなみに「向こう3年は検地しないように」と秀吉が指示したことが一般的に流布していますが、それは後世の創作だということがわかっています。

勃発した肥後国一揆

秀吉は来たるべき中国大陸侵攻のために肥後を兵站基地にしようとしていました。そのために成政を置いたといっても過言ではなく、成政は生産体制確保のために検地を実施したのです。

肥後に多くいた国衆それぞれが地主的存在でしたから、検地の実施に対しては秀吉の御朱印を盾に難色を示しました。国人それぞれが先祖伝来の土地を持ち、それを「どこの馬の骨とも知れぬ者に調べられてなるものか!」という意地があったようです。

越中や富山で実績を積んできた成政といえども、中世封建的な肥後の実情は大きな壁になったはずで、手を焼く形になりました。

検地を拒否した者に対しては、やはり権威を示すべく武力で抑えねばなりません。1587年7月、まずは隈府城の隈部親永を攻め落城させるも、逆に周辺の国衆たちが一斉に蜂起してしまったのです。

一気に数万に膨れ上がった国人衆の軍勢は隈本城に迫ります。事ここに至っては成政の独力では抑えることができず、近隣への波及を恐れた秀吉は、九州・中国・四国の諸将に出兵を命じて鎮圧を図りました。

結果的に国一揆は抑え込まれますが、中立を保った国衆までもが罰せられ、48名にも及ぶ人数が戦死または処刑となったのです。

成政、自刃

いっぽう成政にも、一揆を勃発させたことによる責任が問われる形となりました。成政にも責任の一端があるとはいえ、元はといえば支配体制に組み込まれたばかりの肥後を、無理に兵站基地にしようということに無理があるのは明らかでした。

肥後国一揆が鎮圧された後の1588年2月、成政は失政の釈明と謝罪のために豊臣秀吉の元へ向かいます。しかし面会は許されずに摂津国尼崎に幽閉されてしまいました。

そして5月14日、法園寺にて自刃を命じられました。享年53。そして佐々家は断絶となり、一族や家臣たちは離散してしまったのです。

やがて肥後国一揆をきっかけにして豊臣政権の政策は転機を迎えます。それが太閤検地刀狩りで、これまでの中世封建社会から近世封建社会へと転換していく分岐点となりました。

成政が治めようとした肥後は、秀吉の子飼いの家臣である加藤清正小西行長に受け継がれ、今に至るのです。

佐々成政の子孫たち

最後に、成政の血脈を受け継ぐ子孫たちをご紹介していきましょう。

成政の次女、岳星院は関白鷹司信房に嫁ぎ、娘の孝子は徳川三代将軍家光の正室となっています。またもう一人の娘は絵師狩野永楽に嫁ぎ、江戸時代前期に活躍した狩野探幽を産んでいますね。

忠臣蔵で有名な大石内蔵助の妻りくも佐々家の出身ですし、水戸黄門の助さんのモデルになった佐々介三郎宗淳も成政の子孫です。

現代では、あさま山荘事件で指揮を執り、初代内閣安全保障室長となった佐々淳行氏がいらっしゃいますね。淳行氏は1989年に「佐々家覚え書」という佐々一族の歴史書を編纂されており、高い評価を得ていました。

佐々成政の記憶を受け継ぐ富山人たち

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成政が自刃し、佐々家が断絶してもその記憶は富山の人々にとって今も受け継がれています。肥後国一揆勃発の時には、成政を慕う富山の領民たちが遠く肥後まで駆けつけようとしたほどですし、今でも前田利家ファンよりも佐々成政ファンのほうが圧倒的に多いほど。これからも人々の間で言い伝えられていくのでしょうね。

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明石則実