幕末日本の歴史江戸時代

【幕末偉人】秀才・多才ながら面白い「大鳥圭介」をわかりやすく解説

戊辰戦争での転戦

江戸城へ兵達を残して逃げ帰ってきた徳川慶喜の前での評定で、大鳥圭介は小栗忠順・水野忠徳・榎本武揚らと一緒に徹底抗戦を唱えます。しかし水戸藩出身で子供の頃からガチガチの尊皇教育を受けている徳川慶喜は、朝敵になることが耐えきれずに、勝手に上野寛永寺に蟄居してしまいました。そんな中で大鳥圭介は陸軍奉行に昇進します。幕府が大政奉還でなくなってしまった今、そのような地位をもらってもと内心思ったのかもしれませんね。その頃には家族を下総佐倉藩に家族を逃がしていますよ。

勝海舟の尽力で江戸城無血開城の日、大鳥圭介は500人の伝習隊隊士たちを率いて江戸から脱出しました。本所・市川・小山・宇都宮・今市・藤原・会津と転戦していきますよ。途中で松平太郎や土方歳三と合流しながらの戦いでした。行く先は最後まで抗戦をする覚悟のある会津藩。

会津藩では農民も兵として戦わせることを藩主・松平容保に進言するものの、領民を巻添えにしたくないと断られて、会津藩兵士達と転戦することになりました。激戦となった母成峠の戦いで伝習隊は壊滅しそうなほどの打撃を受けましたが全滅はまぬがれて、城に入ることができないので仙台まで退きます。

そこで榎本武揚や土方歳三たちと合流して、会津藩を助けて新たに国を作ろうとした奥羽越列藩同盟が崩壊したために、蝦夷地に渡り箱館政府を作ることになりました。

箱館政府の陸軍奉行

慶応4年(1868)12月15日いよいよ大鳥圭介という人が一般の歴史好きの中でメジャーとなった、蝦夷地に幕臣達で作られた箱館政府が誕生しました。なぜ箱館が選ばれたのかというと、榎本武揚が18歳の時に箱館奉行の従者となって北海道から樺太まで回ったことからといわれていますね。そこで選挙によって組閣が行われたのですよ。総裁は榎本武揚、大鳥圭介は陸軍奉行となりました。

春が来れば新政府が攻めてくることはわかっていたので、大鳥圭介は大砲の配置や兵の配置を、陸軍奉行並となった土方歳三の補佐を受けて準備をします。

明治2年(1869)4月9日、新政府軍が蝦夷地・乙部に上陸。敵勢力との差があるために、戦力を温存しながら敵に不利になる場所に誘導するという「遅滞戦術」を繰り返し粘り強く戦います。しかし多勢に無勢の力の差はいかんともしがたく徐々に劣勢となっていったのですね。板垣退助などは「大鳥圭介なんてたいしたことない」と言っていますが、西郷隆盛をはじめとした薩摩兵たちは、大鳥圭介の用兵に恐れをなしていたともいいます。まあ本人も「実戦はあまり得意でない」と言ってますから、用兵はうまくても指揮はあまり得意ではなかったのでしょう。そこのところが土方歳三と比べられてしまうところかもしれません。

5月11日、箱館が制圧されて、土方歳三が幹部で唯一戦死します。そのショックから玉砕を覚悟の幹部達に「死のうと思えばいつでも死ねる。ここは一番しゃれこんで降伏したらどうか」と大鳥圭介が諭したので皆も納得して、5月18日に降伏することになりました。大鳥圭介が言わなかったら大変なことになっていたのでしょうね。実際に榎本武揚は一度責任を感じて自殺未遂をしかけていますし。

収監中の大鳥圭介

降伏した榎本武揚をはじめとした幹部達と一緒に、大鳥圭介も江戸から名前が変わった東京へと護送されました。そして軍務局糺問所へと投獄されてしまいます。実はこの牢獄の設計をしたのは、なんと大鳥圭介だったのです!自分が設計した牢獄に入るなんて前代未聞ですよね。

牢獄ではひとりずつ一般罪人と一緒の部屋に入れられ牢名主になったのですよ。しかし幕府に二院制を進言するような人ですので「こんなことはいかん!」と牢名主制度を廃止させて、合議制に変えてしまいました。本当に面白い人だと思います。

明治政府では、箱館政府の幹部をどうするかでもめていました。木戸孝允(桂小五郎)ら長州派は厳罰を主張しましたが、箱館で敵として戦った黒田清隆や福沢諭吉たちの「有能な人物達を厳罰にするにはもったいない」という助命嘆願が徐々に強くなっていきます。

明治政府での大鳥圭介

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明治5年(1872) 、佐倉から江戸に戻って江川英敏の屋敷にお世話になっていた家族と面会したそのすぐ後の、1月8日に特赦として釈放されたのです。黒田清隆の配慮もあって、大鳥圭介は北海道開拓使御用掛五等として明治政府に出仕することになりました。そこからは英語もできて、機械や政治にも通じている大鳥圭介の才能が発揮されていきます。

海外をめぐり北海道開発に力をそそぐ

2月になると大蔵小丞の職に任命されます。大蔵小丞というのは大蔵省の実務をする役人のことですよ。そこで北海道開拓のために欧米各国に開拓するための機械の視察、語学が堪能なために公債発行の交渉をするために海外をめぐることになりました。

2月18日、横浜からアメリカへ出発。1000万ドルの融資をうけてサンフランシスコからワシントンへ。岩倉使節団の木戸孝允と会談。5月にロンドンへ渡り、1000万円の公債をうけてイギリスの工場見学。6月にニューヨークへ渡り、8月にはカナダにも行って各地を見学して、明治7年(1874)に帰国。

帰国すると北海道開拓使を専任することになって、北海道へ出張。北海道の天然資源の報告書を書いていますね。その時に、箱館での戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助などをはじめとする約800人の幕府軍の人たちを慰霊するための「碧血碑」の建立場所を実際に検分して建立に奔走したといいますよ。碑石の文字を大鳥圭介が書いたといわれています。

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紫蘭