地震の発生と被害状況
1923年9月1日の正午近く。突然、首都圏を地震が襲いました。地震の揺れによって木造家屋は次々と倒潰。お昼時とあって、昼食の準備のため家々で炊事をしていたことから各所で火の手が上がります。火災は東京の街を次々と焼き払いました。沿岸部では津波被害、山間部では土石流被害が相次ぎます。
地震の概要と被害状況
1923年9月1日、その日は土曜日で学校や会社勤めのものも、半日仕事で帰宅の途に就こうとしていました。
11時58分、強い揺れが関東地方を襲います。最初はゆっくりとした横揺れだったものが、次第に激しさを増し、立っていられないほどの揺れになりました。激しい揺れは多くの木造家屋を倒潰させます。全壊・半壊した家屋はあわせて20万戸以上に及びました。
地震直後に発生した火災によって20万戸以上が焼失。倒潰と合わせると40万戸近くが失われます。住宅圧壊などによる死者は11,086人、火災による死者は91,781人に達しました。
ほかにも津波や土石流による死者も合わせると合計死者105,385人に及ぶ未曽有の大災害となります。地震規模をしめすマグニチュードは7.9.これは、阪神淡路大震災のマグニチュード7.3を上回る大地震でした。
火災による被害
関東大震災の最大の特徴は、火災による死者が多いことです。地震が発生した時刻がお昼時だったこともあり、各家庭で昼食の準備のため火を使っていたことが各所で火災が発生した原因の一つ。確認できるだけでも136件の火災が発生しました。
しかも、この時、能登半島沖に台風があり、関東地方全域に強風が吹いていたことも火災を拡大させた要因となります。強風にあおられることで火災は見る見るうちに拡大しました。
各所で拡大した火災は周辺の空気を温め、局地的な上昇気流を発生させます。それによって炎の竜巻である火災旋風が発生しました。
火災旋風の内部は高温のガスや炎が渦巻き、巻き込まれると火傷、あるいは窒息により死に至る恐ろしいものです。本所被服廠跡では、避難してきた38,000人あまりが火災旋風に巻き込まれて亡くなりました。
津波や土石流による被害
地震発生直後、震源に近い神奈川・千葉・静岡の太平洋沿岸では津波が観測されました。静岡の熱海市で6メートル、千葉県館山市で9メートル、神奈川県三浦で6メートルなど広い範囲で津波が発生します。鎌倉の由比ヶ浜の一部では9メートルを越える津波が襲来しました。震源が相模湾に近かったこともあり、5分と経たずに津波が襲来します。
また、地震によって土石流も発生。土石流とは、土砂と水の混合物が河川や渓流を流れ下る現象のこと。山津波、地滑り、山崩れなどともいいますね。地震による強い揺れに見舞われた箱根地域では土砂災害が相次ぎます。
現在の東海道線にあたる熱海線の根府川駅では、裏山が崩れ停車中の列車が土石流に巻き込まれて海中に没し、多くの死者を出しました。さらに、箱根大洞山が崩れ、白糸川沿いに土石流が発生。根府川集落を襲いました。この土石流で逃げ遅れた住民の多くが亡くなっています。
地震後に起きた事件
関東大震災発生の8日前、首相の加藤友三郎が死去したため、外相の内田康哉が臨時の内閣総理大臣となっていましたが、9月2日には山本権兵衛を首相とする新内閣が発足。事態の収拾にあたります。震災による混乱の中、朝鮮人や無政府主義者、労働運動の指導者が殺害される事件が発生しました。
社会主義者らが殺害された亀戸事件
震災二日後の9月3日、南葛飾の亀戸で社会主義者の河合義虎ら10名が亀戸警察署に連行されました。連行された社会主義者らは9月3日から5日にかけ、騎兵第13連隊の兵士たちによって殺害されます。
当時、南葛飾地区は大工場などがある工業地帯で、多くの労働者たちが働いていました。そのため、労働環境の改善などを訴える労働運動が盛んな土地として知られます。
軍や警察が、混乱に乗じて社会主義者の一掃を図ったともいわれますが、確たることはわかっていません。
いつまでたっても帰らないことで心配した被害者の家族らが警察に問い合わせましたが、「すでに帰した」と回答されます。事件発生から約一か月後の10月10日、警察は河合ら10名の殺害を公表しました。
社会主義者らは事件の責任を追及しましたが、戒厳令下の適切な行動だとして事件は不問に付されます。
大杉栄や伊藤野枝、6歳の甥が殺害された甘粕事件
震災の直後、政府は東京周辺に戒厳令を布告。治安の維持に努めようとしました。9月16日、無政府主義者の大杉栄と内縁の妻である伊藤野枝が憲兵隊によって連行されます。
18日の報知新聞夕刊で、大杉夫妻が子供ともに憲兵隊に連行されたとの記事を掲載。事件を憂慮した警視庁の正力松太郎らによって警視総監や内務大臣の後藤新平に報告が上がる事態となりました。
憲兵隊内部で大杉らの事件について調査が行われました。その結果、憲兵大尉の甘粕正彦が大杉夫妻や6歳の甥を憲兵隊本部に連行したうえ、厳しい取り調べを実施、死に至らしめたことが判明します。遺体は憲兵隊本部裏の古井戸に遺棄されていました。
甘粕大尉は軍法会議にかけられます。軍法会議で甘粕大尉は、無政府主義者の大杉が震災の混乱に乗じて政府を転覆させるのではないかと懸念し、殺害したと述べました。甘粕は懲役10年とされます。