幕末日本の歴史江戸時代

【幕末偉人】秀才・多才ながら面白い「大鳥圭介」をわかりやすく解説

大鳥圭介は武士になった

安政5年(1858)、大鳥圭介の名前を知った尼崎藩の江戸屋敷にいた藩士の服部元彰の紹介で、故郷の上郡を領地とする尼崎藩に8人扶持で取り立てられて「藩士」となります。その後すぐに洋学全般に秀でている大鳥圭介の噂を聞いて徳島藩がヘッドハンティングしたりしてますよ。ここで大鳥圭介は正式に武士という身分になったのでした。

余談ですが、安政年間に頻発した安政の大地震の時は、住んでいた長屋が全壊してしまいましたが「なくす物などなにもない」と笑っていたそうです。けっこうキモが座ってますよね。

どんどん躍進していく大鳥圭介

安政6年(1859)、なんと幕府から、後に東京大学の機関の一端となる「蛮書調所(後の洋学調所)」の教授として出仕するように言われたんですよ。ここはペリーの黒船来航以来、西洋のことをもっと知らなければと作られたのが始まりで、大鳥圭介が入った時には幕臣や藩士たちに西洋のことを(蘭語だけでなく英語も)教える学校という役割もあったのですね。

安政7年(1860)に、大鳥圭介は『砲科新編』という砲術の本を翻訳します。当時の印刷物というのは木の板に文字を彫っての木版だったのですが、日本で初めて合金製の活版を作ったのですよ。その活字は「大鳥活字」と呼ばれて、その後も色々な本を出版していきます。現物は戊辰戦争の時に行方不明となってしまったそうです。

活字がその頃なんて日本って遅れてる~って思いますか?実はですね、徳川家康の時には木製の活字はすでにあったのですよ。字を拾っていくより彫った方が早いということで廃れたとかいう話ですね。勉強ばかりの人かと思いがちですが、この年には雲州藩藩士の娘の矢島みちと結婚してますよ。

幕臣となった大鳥圭介

文久元年(1861)12月、幕府にふりまわされて過労死した江川英龍の後を継いだ「江川英敏」の推挙で「御鉄砲方附蘭書翻訳方出役」として出仕することになります。

文久3年(1863)8月20日には「海陸軍兵書取調方」と、蛮書調所から名前が変わった「開成所」の教授を兼務。当時ではビックリするような「二院制議会」の採用をしたほうがいいと幕府に建言

元治2年(1865)1月28日、陸軍所に出仕。そこでようやく「富士見御宝蔵番格」という方書が幕府からくだされて、正式に「幕臣」になって俸禄50俵3人扶持の「旗本」となりました。

伝習隊が結成される

慶応3年(1867年)1月、幕府がフランスの皇帝・ナポレオン3世からフランス軍事顧問団を派遣してもらって直接指導をしてもらう、精鋭西洋式歩兵部隊の伝習隊を結成することになりました。大鳥圭介はそれに参加をして歩兵隊長としての教育を受けて「歩兵頭並」となって、指導と育成をすることになったのですよ。

実際のところは、鉄砲をかついで戦うなど嫌だという旗本や幕臣が多くて、兵士達は博徒・やくざ・雲助・馬丁・火消といった江戸の無頼の徒といわれる人たちだったようですね。しかし装備は最新鋭でナポレオン3世からも野砲と山砲が贈られ、幕府では最強ともいえる軍隊となったのでしたよ。総勢800人だといいますね。

戊辰戦争と箱館政府

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慶応3年10月14日(1867年11月9日)に「大政奉還」という15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上してしまいます。そして慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いが勃発してしまいました。戊辰戦争の始まりです。伝習隊の一部も幕府陸軍の一部隊として参戦しましたが、最新鋭兵器でやってくる薩長をはじめとする軍隊にまともに対抗できるのは伝習隊などの一部ということで、結果は散々でしたね。

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紫蘭