日本の歴史明治明治維新

維新直後の明治政府が真二つに割れた「征韓論」背景・経緯・結果など元予備校講師がわかりやすく解説

西郷派遣の決定

日本からの国交樹立要請を拒否した朝鮮の大院君は朝鮮人が日本人とかかわることを禁止する布告を出します。

1873年6月、留守政府の閣議で朝鮮問題が取り上げられました。参議の板垣退助は朝鮮に居留する日本人の保護を名目として朝鮮に出兵したうえで、使節を派遣することを主張します。

これに対し、西郷隆盛は即時の派兵には反対の意向をしめしました。その上で、西郷は自ら大使として朝鮮に赴き朝鮮を開国させると言い出します。江藤や後藤は西郷を支持。板垣もこれに応じたため、閣議の態勢は西郷派遣で固まりました。

留守政府のトップにあたる太政大臣の三条実美は西郷に思いとどまるよう説得しますが西郷は聞きません。1873年8月、ついに閣議で西郷派遣が決定されます。奏上を受けた明治天皇は岩倉使節団の帰国を待つべきだと返答しました。

岩倉使節団の帰国と明治六年の政変

1873年5月、先に帰国してきた大久保利通は、維新直後の新政府は財政状況が厳しく、とても朝鮮と戦争ができる状態ではないとして西郷の派遣と征韓論に真っ向から反対します。それでも、西郷は自分の考えを変えようとしません。

1873年9月、大使の岩倉具視以下、使節団の全員が日本に帰国。征韓論について本格的な議論が始まります。

1873年10月14日、岩倉は閣議で西郷派遣について反対を表明したため、征韓派と激論となりました。賛成・反対両派の板挟みとなった太政大臣三条実美は10月18日に病に倒れます。かわって岩倉具視が太政大臣代行となりました。

岩倉は大久保と連携して征韓論に反対し明治天皇に対して、「自分の考え」としたうえで征韓論反対を奏上します。結局、岩倉の意見が通ったため西郷ら征韓派の参議は辞表を提出し一斉に下野しました。この事件を明治六年の政変といいます。こうして、征韓論は否定され西郷派遣や朝鮮への出兵は中止とされました。

征韓論の後の日本

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西郷派遣と朝鮮出兵は中止となりましが、日朝関係は悪化の一途をたどりました。1875年の江華島事件をきっかけに、結局、日本は朝鮮を武力で開国させ日朝修好条規を結ばせます。また、征韓論争に敗れて下野した元参議たちは郷里の不平士族と結びつき、士族反乱の首謀者として担ぎ出されました。一方、板垣退助は武力反乱ではなく言論で政府と対峙する自由民権運動をおこないます。

江華島事件と日朝修好条規

1873年、強引な鎖国・攘夷政策を展開する大院君が国王の妃である閔妃の一族が起こしたクーデタによって政権を追われました。それでも、朝鮮の基本政策は変わりません。

1875年、日本軍艦の雲揚が江華島砲台付近で測量を実施したことから、江華島の朝鮮軍砲台が雲揚を砲撃する江華島事件がおきます。日本軍は江華島の砲台に反撃、付近にある永宗島を占領しました。

1876年、日本政府は朝鮮に対し黒田清隆を弁理公使とする使節団を派遣します。この時、黒田は軍艦6隻を率いて江華島に上陸。儀仗兵部隊とガトリング砲4門を備えた強力な部隊で朝鮮に圧力をかけました。

その結果、日朝修好条規が締結されます。日朝修好条規は釜山など2港の開港と自由貿易の保証、居留地の設定、領事裁判権の容認、輸出入税の免除など日本に有利な内容の不平等条約でした。

相次ぐ士族反乱

征韓論争で敗れ、辞表を提出した元参議らは郷里に帰りました。地元に戻ってみると、かつての仲間でありともに戦った士族たちが困窮しています。徴兵令や廃刀令の発布により士族たちは自分たちの存在意義を否定され、プライドを大きく傷つけられていました。

また、秩禄奉還の法や秩禄処分は、士族たちの経済的な基盤を奪い去ります。地位も名誉も財産も失った士族たちは帰郷した元参議たちをリーダーとして新政府に反旗を翻しました。これが、士族反乱です。

1874年には江藤新平を首領とする佐賀の乱、1876年には旧秋月藩士による秋月の乱、熊本県士族による神風連の乱、山口県士族が元参議前原一誠を担いで起こした萩の乱など士族反乱が続発しました。

そして、1877年、ついに西郷隆盛が不平士族に擁されて反乱の狼煙を上げます。西南戦争の始まりでした。新政府は徴兵軍に加えて元士族の警察官による抜刀隊まで投入して薩摩軍を鎮圧します。

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