日本の歴史明治明治維新

維新直後の明治政府が真二つに割れた「征韓論」背景・経緯・結果など元予備校講師がわかりやすく解説

江戸時代にもあった「征韓論」

一般に、明治時代に初期の「征韓論」が注目されますが、「征韓論」という考え方自体は昔からありました。征韓論の根拠の一つが、古代日本が朝鮮半島南部を支配していたという「古事記」「日本書紀」の記録です。

江戸時代に国学の研究が盛んになると、日本の古い時代の記録に目が向けられるようになり、古代日本の朝鮮進出にも目を向けられることとなりました。

より直接的に、朝鮮を日本に従わせるべきだと主張したのは長州藩の思想家吉田松陰です。吉田は軍備の増強や蝦夷地開拓、琉球併合などとともに朝鮮を属国化するべきだとも唱えました。

吉田の主張がすぐに実現されたわけではありません。しかし、その後の明治政府の動きを見ていると、富国強兵や琉球処分、北海道開拓使の設置など吉田の主張が実現されたかのような動きを見せています。

新政府要人たちが吉田の意思を実行しようとしたかどうかはさておき、征韓論自体、明治以前からあったことには留意すべきでしょう。

 

征韓論の経緯と結果

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朝鮮との交渉が一向に進まない中、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允ら政府首脳は長期間の欧米視察となる岩倉使節団として出国します。日本に残された西郷ら留守政府は朝鮮問題解決のため、西郷を朝鮮に派遣することを決定しました。しかし、西郷の派遣は帰国した岩倉や大久保の反対で延期となります。このことに反発した西郷ら征韓派の参議たちは一斉辞職しました。これを明治六年政変といいます。

岩倉使節団の出発

幕末の1858年、日本はアメリカをはじめとする欧米諸国と修好通商条約、いわゆる安政の五カ国条約を結びました。この条約は日本に関税自主権がなく、相手国に領事裁判制度を認めるなど日本にとって不平等な内容でした。そのため、日本にとって不平等条約の解消は悲願の一つとなります。

修好通商条約は1872年から改正交渉が可能だったことから、政府は岩倉具視を団長とする大使節団の派遣を決定しました。

使節団の目的は不平等条約の改正と欧米の先進文化の吸収です。岩倉をはじめ新政府の高位高官がそろって国を留守にすることから、残された人々によって留守政府が形成されました。

留守政府は大規模な案件は使節団に報告すること、新規の改正はしないこと、新しく大臣にあたる卿や参議を任命しないことなどを使節団に約束します。しかし、結果的にこの約束は守られませんでした。

留守政府の活動

使節団の出発後、大規模な改正はしないという約束を破り、留守政府は次々と新しい政策を実施しました。戸籍法の改正や陸・海軍省の設置学制の公布、琉球藩の設置、国立銀行の設置、徴兵令地租改正条例の公布など矢継ぎ早に新政策を実行に移します。

留守政府としては、いつ帰国するかわからない使節団に確認する暇はなく、変化する情勢に対応するべきと考えての行動でしたが、これが使節団と留守政府の溝をふかめてしまいました。

使節団側からすれば、最初の約束を守らず、勝手に国政を動かしていると見えたことでしょう。

また、肥前の江藤新平を司法卿、参議に任命した件や後藤象二郎らの参議任命でも留守政府は使節団と対立します。こうして、使節団が帰国する前に、留守政府と使節団の関係はかなり悪化してしまいました。

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