室町時代日本の歴史

日本文化の原点である「室町文化」はどんな文化?わかりやすく解説

今から約600年前に存在していた室町時代。 その室町時代に栄えていた文化のことを総称して文化を総称して室町文化といいます。 今回はそんな室町文化について詳しく解説していきたいと思います。

室町文化って何?

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室町文化とは室町時代に日本に花開いた日本独特の文化のことです。

室町時代は武家が公家と並んで文化的な教養を持つようになっていき、武士の性格がそのまま文化のほうにも受け継がれていくようになっていったのでした。

また幕府が京都に置かれたこともあってもともとあった公家の文化と武士の文化が融合していくようになっていき、中国から日明貿易を通して大陸文化が伝えられるとみずからの力強さ簡潔さと公家文化の伝統美を融合させていき新しい武家文化を開化していき最終的にはわびさびと呼ばれる日本の文化の原点になっていくのです。

室町文化には、三代将軍義満の頃の北山文化と八代将軍義政の頃の東山文化という特徴的な二大文化が栄え、戦国時代にはこの二つの文化が地方にも広がっていくことになるのでした。

北山文化

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北山文化とは、3代将軍足利義満のころの文化のこと。義満が京都北山に営んだ山荘(今の金閣寺)に由来します。平安時代から続く伝統的な公家文化と、新興の武家文化が融合することで誕生した文化でした。

勘合貿易が盛んにおこなわれるようになると、明の漢詩文化に触発された臨済宗五山派の僧侶たち五山文学を作り上げます。五山派の寺院は五山・十刹とよばれる仕組みによって統制され、室町幕府の保護を受けました。

また、禅宗の重要な要素である水墨画の技術が日本で普及するのも北山文化の特徴です。

公家と武家の融合

北山文化の最大の特徴はこれまでの公家の文化と武家の文化の融合にあると思います。

その様相が一目でわかるのがみなさんご存じ鹿苑寺金閣(金閣寺)。

金閣寺って見た目は派手なんですが、基本的には従来からある貴族の邸宅様式である寝殿造。その上に武家屋敷と寺院建築を乗っけたものとなっています。

斬新といえば斬新なんですが、まるっきりのオリジナルという事もないんです。

当時はまだ武家文化が発達していなかったので、公家文化をパクリながら新しい文化を表現しようとしています。特筆すべきはやはりあの金ぴかの外壁。

この当時大名の中でもこれまでの様式にとらわれないバサラ大名が存在しており、その人たちはド派手な服装と生活を送っていました。そこで自分達の生活を表すためにギラギラな形で存在をアピールしていたんですね。

また、この頃では文化的な面でも公家の方が一歩リードしており、足利義満も公家としての一面を見せていくようになります。足利義満は天皇にまでなろうとしたという噂がありますが、武士として久しぶりに太政大臣になるなど公家としてもトップに君臨していました。

このように北山文化では豪華で公家と武家が融合した文化であったと言えるのです。

能の大成

北山文化を代表する芸能はやっぱり能(能楽)。

元々能の原点とされている猿楽や田楽などは平安時代後期のころから存在していましたが、この踊りををもとに、観阿弥と世阿弥の父子が能面をつけた役者が音楽に合わせて舞う能をつくりあげました。

もともと日本には猿楽や田楽を保護する団体が存在していて興福寺の保護のもとに金春座・金剛座・観世座・宝生座の大和猿楽四座が存在していました。そのなかでも観世座出身の観阿弥と世阿弥は田楽に幽玄という精神を盛り込んで能を大成。足利義満は京都での巡業の際にわざわざ見にいったほど気に入っており幕府によって観世座は幕府の庇護のもとに成長を遂げていくようになっていったのです。

そして幕府から保護された観阿弥は能の脚本を多数制作。世阿弥は六代将軍である足利義教の迫害を受けましたが、それでもめげず能の神髄を述べた『風姿花伝』や『花鏡』といった理論書を残して能の確立に努めていきました。

また能の合間には能のような重苦しい話ではなく大名や僧侶など権威ある人たちを題材にコミカルにあらわした狂言が発展することになります。

五山文学

室町時代初期のころは臨済宗の僧侶が積極的に政治に介入していました。そんな臨済宗でも京都と鎌倉に5つの大寺院を五山として区別していました。

時代によって順位が変わることもあるのですが一般的には京都五山は天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺、鎌倉五山は建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺、そして京都にある南禅寺が別格として存在している形となっています。

そのため、北山文化は臨済宗の僧侶が文化の担い手として活躍していたのです。鎌倉時代の末期から臨済宗の僧侶たちを中心として漢詩文学が生まれました。

この文学を臨済宗の五山の僧侶が担い手となったことから五山文学といいます。

また、臨済宗の僧侶は日明貿易の外交僧としても活躍しており、虎関師錬、絶海中津、義堂周信などがそんな中で活躍していました。

五山文学には臨済宗の教えである公案の内容が多くあり、中国の古典や漢詩などの研究などが中心となりました。代表的な例は如拙が描いた瓢鮎図や周文の寒山拾得図などが挙げられます。

また、その他にも五山文学は詩文、日記、論説など幅広い分野に及びました。こうした研究は江戸時代の儒学を作り出す藤原惺窩や林羅山らにも大きな影響を与えました。

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