室町時代戦国時代日本の歴史

激動の時代に翻弄された「佐和山城」とはどんな城だった?歴史系ライターが解説!

姉川合戦と佐和山城の孤立化

1570年、小谷城を攻略すべく信長は大軍を率いて北近江へ迫りました。そして越前からは浅井氏を救援するべく朝倉軍も援軍として到着します。世にいう【姉川の合戦】ですね。

当初は優勢だった浅井軍も、織田軍の分厚い陣立てと徳川軍の横槍のために総崩れとなり、小谷城へ撤退します。朝倉・浅井連合軍が大敗したという通説もありますが、実は織田徳川軍も損害が大きく、その後の作戦行動が取れなかったため戦術的には引き分けだとされていますね。

しかし戦略的には浅井氏のほうが圧倒的に不利となりました。小谷城と佐和山城それぞれが分断され支城ネットワークを活用できなくなったからです。小谷城には羽柴勢を構えさせ、佐和山城には丹羽長秀らを張り付かせることで両城の動きを封じたのでした。

こうして佐和山城は長きにわたる包囲に苦しむことになりました。

佐和山城、ついに織田の手に落ちる

こうして小谷城と分断され孤立した佐和山城の周囲に、織田軍は4ヶ所の付け城(陣城)を築きました。「付け城」とは、包囲している敵方の城に物資や兵員を送れないように監視するためのもので、敵の城兵からの反撃を抑えるための役目もありました。こうした付け城は石山本願寺、三木城、鳥取城、八上城、美作岩屋城、吉田郡山城など籠城戦を経験した城によく見られます。

いずれにしても付け城群を築いて長期包囲する構えの織田軍に対して、城主磯野員昌はひたすら小谷城からの援軍を待つ他ありませんでした。

包囲の目をかいくぐって援軍要請を出しても小谷城からの援軍はやって来ません。それもそのはず、小谷城も目の前に横山城という城を織田軍に築かれ、厳重に監視されていたからです。

籠城すること8ヶ月、員昌はついに城を明け渡して降伏。浅井氏の南の拠点だった佐和山城は織田の手に落ちてしまいました。新たな城主として丹羽長秀が入り、その2年後には小谷城も落城して浅井氏は滅亡を迎えました。

石田三成時代の佐和山城

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不明宇治主水, パブリック・ドメイン, リンクによる

やがて戦国群雄割拠の時代から、織田・豊臣の安定政権の時代へと変遷していきます。佐和山城もまた時代と共にその姿を変えていくのです。石田三成が城主だった頃に城としての最盛期を迎えました。

織豊系城郭として生まれ変わる佐和山城

佐和山城主は丹羽長秀の後、羽柴秀吉政権になって堀秀政、堀尾吉晴と変わっていきます。既に現在の近江八幡市にある八幡山城が完成していたため、軍事的にはさほど重要視されていなかったようです。

この頃の佐和山城は土留めの石積みなどはあるものの、基本的に空堀や土塁などで造られた「土の城」いわゆる戦国山城の域を出なかったことでしょう。建物なども非常に質素なもので天守閣などは備えていなかったものと思われますね。

しかし秀吉政権下でめきめきと頭角を現してきた男が、この佐和山城の姿を一変させることになりました。そう、石田三成が新たに佐和山城主となったのです。

1595年に入城した三成はさっそく城の大改修に取り掛かります。その所領19万石にふさわしい城にするべく、高く石垣を築き、壮大な門を構え、天にそびえる5層の天守閣を建設しました。現在見られる曲輪の形は、この三成時代のものです。

ちなみに【織豊系城郭】とは、安土城や大坂城に代表されるように豪壮な石垣や高い防御力を持った城郭のことで、鉄砲戦を想定した造りとなっていることが特徴ですね。

 

“三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城”

引用元 「古今武家盛衰記」より

 

「石田三成には自慢できるものが2つある。武勇の誉れ高い家臣の島左近と佐和山城だ。」とまで謳われていますね。ただし「古今武家盛衰記」は江戸時代中期の宝暦年間の作のため、当時からこのように言われていたのかどうかは甚だ疑問が残ります。

三成の佐和山城はどんな城だった?

現在の佐和山城には遺構はおろか石垣すらまともに残っていないため、当時の姿を想像することすら難しい状況にあります。しかし探せば必ずあるもので、実は滋賀県多賀の多賀大社に所蔵されている「多賀大社社頭絵図」の中に往時の佐和山城天守が描かれているのです。

絵図に描かれた往時の佐和山城の姿はこちら!

この絵図の成立期は桃山期~江戸時代初期にかけて。ですから佐和山城がまだ健在だった頃に描かれているため信憑性が非常に高いといえるでしょう。

天守は三重のように見えますが、木々に遮られているために、もしかしたら五重だったのかも知れません。また「澤山城」と書かれていますが、当時はそうも呼ばれていた可能性もあります。

三成は豊臣政権の五奉行筆頭だったとはいえ、その生活は質素で慎ましいものだったようです。城の襖ひとつにしても外見は豪華で華やかな意匠が施されているにも関わらず、内面は非常に質素な造りにしていました。この襖は佐和山山麓にある龍潭寺で拝観することができますよ。

また日々、政務で忙しかった三成は大坂や京都に常駐していたため、代わりに父の正継が城代となって城を守っていたそうです。

関ヶ原合戦後、落城の憂き目に逢う

しかしそんな佐和山城にも落城の時が訪れます。秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いにおいて三成を中心とした西軍が敗れ、佐和山城は1万5千もの敵の大軍に囲まれたのです。

城主不在の城は、三成の父正継、兄の正澄が2,800の兵を率いてよく守りました。しかし味方の裏切りもあって衆寡敵せず敵の乱入を許すことに。もはやこれまでと、正継と正澄は自害。三成の妻を含む一族たちも相果てたそうです。

この時裏切った長谷川守知は、自らが守る三の丸へ敵を引き入れ、石田一族を自害に追い込みました。戦後、長谷川はまんまと所領を安堵され、のちに美濃長谷川藩の大名となっていますね。

そして落城の際に家臣の婦女子たちが谷へ身を投げ、多くの者が亡くなったとも。その悲痛な声が三日三晩響き渡ったともいわれ、以来そこは女郎谷と呼ばれるようになりました。

こうして落城した佐和山城には、戦後処理の結果、徳川氏譜代の井伊直政が入ることになりました。

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明石則実