教養歴史

日本激動の時代「昭和」には何があった?わかりやすく解説

日本で一番長い元号と言われている昭和。この時代は第二次世界大戦、東京オリンピック、高度経済成長などの変動が起こった日本の激動の時代でした。 今回はそんな日本の激動の時代であった昭和時代について解説していきたいと思います。

日本の大混乱【昭和改元から満州事変まで】

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昭和に改元した当初、日本は自然災害や国内外の動きによってとてつもない苦境に立たされていました。これが原因で日本は少しずつおかしくなっていきましたが、果たしてどのような事情で日本はおかしくなっていったのでしょう?まず最初は昭和の初めから満洲事変までを見ていきたいと思います。

金融危機と大恐慌

大正時代の中期には第一次世界大戦による大戦景気によって日本経済は大きく急成長を遂げることになりますが、大戦が終結すると日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となってしまいます。さらには関東大震災による震災恐慌が重なり日本の景気は一気に停滞の色を見せていくようになりました。

昭和に入ったころ。日本の景気はいいものではなかったもののある程度の水準には保たれていました。しかし、1927年にこれまでの恐慌による手形の焦げつきが増えていったことによって、銀行への取りつけ騒動が勃発。さらには片岡大蔵大臣が東京渡辺銀行が潰れたという失言をしたことによって取り付け騒ぎは一気にヒートアップ。いわゆる昭和金融恐慌となってしまいました。

これによって日本の景気は一気に後退。さらには東北地方ではこの恐慌と冷害による大凶作もあって農村では娘の身売りが起こってしまうなどの大問題が起こってしまったのです。

この未曽有の事態に若槻内閣は緊急勅令を発令しようとしましたが枢密院の反対にあい総辞職。その後の田中義一内閣の高橋是清蔵相が3週間の支払い猶予令を出し、さらには裏側が真っ白な200円札を急いで発行してそれを緊急的に貸し出したことでなんとかこの恐慌を乗り越えることに成功しました。

ちなみに、この昭和金融恐慌によって銀行の経営統合が行われるようになっていき、特に財閥の色が濃かった五大銀行(三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行・第一銀行)への預金が集中することになります。

しかし一難去ってまた一難。その2年後の1929年10月24日にニューヨークのウォール街で株価の大暴落。今度は日本はおろか世界に波及していきいわゆる世界恐慌が引き起こされました。

この世界恐慌によって日本では昭和恐慌が勃発。金解禁によって日本は一気に不景気となってしまい、一時期持ち直したように見えた日本の経済は一気に深刻なものへと変貌を遂げることになるのです。

軍部の台頭

昭和初期は大正デモクラシーの成果で政友会・憲政会が政党を握るという憲政の常道と呼ばれる政党政治の時代でした。軍もこの時代にはいると山梨軍縮や宇垣軍縮などで徐々に軍の影響力を減らそうと努力していたのです。

しかし、その時でも軍部は中国に対する利権を拡大するために次々と中国に対して攻める色を見せていきます。

まず、1927年に田中内閣は山東省に対して出兵を行い、さらには1928年(昭和3年)に満州にて勢力を伸ばしていた張作霖を列車ごと爆破して暗殺。いわゆる満州某重大事件を起こしてしまいます。

しかし、昭和天皇かしたらこんな動きは良しとはしません。その後田中内閣の後に誕生した加藤内閣では外務大臣であった幣原喜重郎が中国に対する内政干渉をやめるようにしていき、さらにはフランスのパリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印しました。

また1930年にはアメリカやイギリスが中心となりロンドンにて列強の保有艦を制限する海軍軍縮会議が開催。これによって日本の保有艦隊は保有比率をアメリカ:イギリス:日本 = 10:10:7とすることで合意されました。しかし海軍をアメリカとイギリスよりも制限されることに我慢ならなかった海軍と野党はこの条約調印を統帥権の干犯として内閣に反発したのです。

もちろん、内閣からしたらそんな考えもうどうもなかったと思いますが、これによって右翼の怒りを買ってしまい濱口雄幸は銃撃されてしまいその後総辞職するとになりました。

日本の十五年戦争【満州事変から終戦】

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日本は軍部の暴走によって日本はどんどん戦争への道を突き進んでいくことになりました。次は日本がどのようにして戦争に突き進んでいくのかについてみていきたいと思います。

満州事変の勃発

1931年9月18日。関東州の警護を任されていた関東軍の謀略によって南満州鉄道の線路が爆破される柳条湖事件が起こることに。これを契機に満洲事変が勃発していき満州は満州国として日本人の独断にてかってに満州国が建国されることになりました。

この日本の満洲国建国に国際連盟はリットン調査団を派遣。日本の独断行動と判断する結果をまとめて日本にはある程度譲歩するものの、日本にたいして撤退勧告案をだすことに。これに日本は不服として国際連盟を脱退。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいくこととなります。

また1932年5月には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件が起こり政党政治は終焉を迎え日本はここから一気に軍国化を突き進んでいくことになりました。

また軍部内でも天皇による親政を目指す皇道派と財閥との協力を目指す統制派で対立。1936年に皇道派の将校たちが「昭和維新」をスローガンとして斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した二・二六事件が起こりました。

この二・二六事件はあっさり鎮圧されてしまいましたが、これによって統制派の勢力が大きくなっていくようになります。

日中戦争の始まり

日本と中国の関係が徐々に悪化していく中で中国の北京に駐留していた日本軍が中国軍に攻撃されたことを口実として盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突。これがずるずると続いていきさらには第二次上海事件などといった中国人による日本人虐殺事件なども起こったことによって日本は中国に侵攻を開始。いわゆる日中戦争が始まったのです。

この日中戦争は初期は日本軍の怒涛の進撃によって日本軍は中国沿岸部を確保。さらには中国の首都である南京も陥落させていき日本軍は戦争を優位に進めていきます。しかし、中国の広大な領土に苦戦していくようになっていき、最終的には戦線は停滞。

日本国内でも国内の物資を戦争の前線に送り出すために日本人の思想と物資を統制していくようになり、国民の全ての物資を政府が決めることができるというとんでもない法律である国家総動員法が成立することになりました。さらには前線は停滞。さらにはアメリカとイギリスとの関係も悪化していくようになり、日本はどんどん苦境に陥ることになります。日本の内閣は近衛文麿・平沼騏一郎・林銑十郎といった形でコロコロと変わっていくようになりました。さらには満洲では国境問題によって日本とソ連がノモンハンで衝突。

日本は大損害を被り日本の敗北で講和することになりました。このように多方面にて問題を抱えることとなった日本。そして日本はアメリカとの対決に突入していくことになるのです。

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