室町時代戦国時代日本の歴史

激動の時代に翻弄された「佐和山城」とはどんな城だった?歴史系ライターが解説!

徳川時代の佐和山城

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石田三成に成り代わって佐和山城へ入城した井伊直政でしたが、領地に善政を敷いた三成の功績を慕う領民もまた多く、三成の幻影を断ち切る必要がありました。そのためには新たに城を築いて、そこを統治の中心とすること。いよいよ佐和山城が歴史の表舞台から消える瞬間がやってきたのです。

落城するも、実は健在だった佐和山城

「落城」と聞くと、炎上して灰になるというイメージがありますが、佐和山城の場合、焼けることはありませんでした。なぜなら2016年の発掘調査でも焼土層などの痕跡が見つからず、本丸を中心に散乱している瓦にも焼けた跡がなかったからです。

また直後に佐和山城へ入城した井伊氏も、何の問題もなくそこに居続けましたし、おそらく落城という激しいものではなく、石田一族が自害した後に開城したのではないか?という説が有力となっています。

佐和山城と同じく、通説では焼失したのでは?とされているお城も実は焼けていないものが多いのです。例えば安土城は焼けたのは本丸を含む部分だけで、残りの曲輪や屋敷群などは無事でしたし、小谷城も落城はしたものの焼けずに羽柴秀吉が入城しています。

彦根城築城と共に廃城となる

佐和山城へ入城した井伊直政は、さっそく現地の状況を鑑みて新城築城の計画を建てました。そこで佐和山から至近距離にあるものの交通の要衝にあり、琵琶湖にも面した彦根山を城地として選定したのです。

1602年に直政は関ヶ原での戦傷が元で亡くなりますが、その遺志を継いだ家老らが協力して築城を開始し、1606年にはおおかたの工事が完成しました。この際、近隣にある大津城、長浜城、佐和山城などの廃材や石材を持ち込み、その材に充てたといいます。当時は木材や石材が非常に貴重だったため、このように廃材をうまく活用することで城を造っていたのですね。

彦根城が完成すると、跡を継いだ藩主直継は佐和山城を引き払い移っていきました。この際に佐和山城も廃城となっています。といっても彦根城が完全に出来上がるのはまだまだ先で、1622年まで彦根藩の手で工事が続いていたそうです。

「見せしめのために破壊された佐和山城」の真実に迫る

佐和山城は廃城が決まると徹底的に破壊されました。もはや何も残っていない状態になるまで壊し尽くされたのです。それが現在見られる佐和山城の残念な姿なのですね。

通説では「徳川に逆らった見せしめのため」「憎っくき三成の痕跡を消すため」に佐和山城は破壊されたといわれていますが、果たしてそれは本当なのでしょうか?その真実に迫っていきましょう。

城を壊してしまうことを専門用語で【城割(しろわり)】と呼びますが、多くの場合は「二度と城として使わせない」ことを目的としています。例えば島原の乱で一揆軍の拠点となった原城の場合、戦後に石垣を崩して徹底的に破壊されていますね。朝鮮出兵の拠点となった長崎県の名護屋城も同様の理由でした。

彦根城が築城されて藩主が移り住むと、佐和山城は無用の長物となりました。至近距離に大きな城は2つもいらないわけです。しかも当時は大坂城の豊臣氏がまだ健在で、いつ戦いになってもおかしくない状況でした。万が一、豊臣の軍勢が攻めてきて佐和山城を利用されたら…佐和山の上から彦根城は一望の下ですし、攻めるための陣城としてうってつけですね。

そうした脅威をなくすために佐和山城を徹底的に破壊し、城としての機能を失わせたのではないでしょうか。決して見せしめのためでもなく、三成が憎くて壊してしまったわけではないでしょう。また井伊家は代々、佐和山を「御山」と呼んで大切に扱ってきたくらいですし。

1622年まで彦根城の築城工事は続きましたが、廃城となった佐和山城の廃材を大いに利用していたものと思われます。それこそ石垣に使う石に至るまで。現在の佐和山城にほとんど石が残っていないことからも、ほとんど全てが彦根城築城工事に回されたのではないでしょうか。

彦根城はそういった意味では、「佐和山城のエッセンスも取り入れたハイブリッドなお城」と表現できるのかも知れません。

今も息づく佐和山城の遺産

痕跡がなくなってしまった佐和山城ですが、実はその遺構は様々な場所へ移築されています。例えば彦根城から程近い場所にある宗安寺の山門。これは佐和山城大手門を移築したものだと伝えられていますし、佐和山から南へ10キロほどのところにある光源寺の山門も佐和山城切通口の枡形門だとされていますね。今ではうかがい知ることができないお城ですが、こうして今も遺産が息づいているところが、歴史ファンの知的好奇心をくすぐるのではないでしょうか。

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明石則実