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不平等条約改正に強い影響を与えた「ノルマントン号事件」とは?わかりやすく解説

1886年にイギリス船籍のノルマントン号が紀州沖で難破しました。この海難事故の際にイギリス人船長は、日本人客を後回しにしてイギリス人客の救助をしたため、多くの日本人客が亡くなる事故になりました。そのため、当時の日本人は船長の極刑を望みましたが、条約で裁判権は英国にあり、イギリス領事館は審判で船長を無罪にしたため、日本国内には強い不満の声が広がりました。 これがノルマントン号事件と言いますが、この事件によって当時外務卿の井上馨によって行われていた諸外国との修好通商条約の改正問題は白紙に戻り、井上も辞任に追い込まれてしまったのです。 このノルマントン号事件についてその背景も含めて詳しく解説します。

ノルマントン号事件とは

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ノルマントン号は、イギリス船籍の貨物船(貨客船)でしたが、1886年10月に紀州沖(和歌山県沖)で座礁沈没したのです。このノルマントン号はノルマントン号とも言われており、以降はノルマントン号事件とします。この海難事故で、イギリス人船長が、日本人乗客を見殺しにしたと疑われ、責任が問われたものの、裁判権を持っていたイギリス領事館は船長を不問としました。そのため、日本国内では諸外国との不平等条約に対する反発が強くなり、条約改正に取り組んでいた明治政府に対する批判が強まったのです。この事件をノルマントン号事件と言います。

このノルマントン号事件は、日本の不平等条約に対する見方が改めて問われた事件だったのです。

その背景から見ていきましょう。

ノルマントン号事件によって注目をあびた不平等条約とは

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ノルマントン号事件がなぜ国民の批判を浴びたのかは、ペリー来航以降におこなわれた開国の際の日米修好通商条約の中身を見ればわかります。すなわち、この条約では、大きな2つの不平等がありました。すなわち、治外法権と関税自主権がないことです。この条約は、アメリカだけでなく、イギリス、フランス、ロシア、オランダとも同じ条約を結んでいました。

そのために、江戸時代末期から明治時代にかけて日本はこの不平等条約に苦しんだのです。

日米修好通商条約の不平等は何だったのか

修好通商条約の不平等は治外法権と関税自主権ですが、何が問題だったのでしょうか。

治外法権とは、日本国内で外国人が罪を犯しても日本の警察は捜査権がなく、裁判所も裁くことができず、その外国人の裁判権は領事館がその権限を持っているということです。外国人が殺人を起こしても日本の法律では裁くことはできません。

一方、関税自主権というのは、輸入品に対する関税を日本自身では決められないということです。通常は安い外国製品が入ってくると、同じ製品を生産している日本の業者は売れなくなり、倒産してしまうため、関税をかけて価格差をなくして公平な競争をさせています。

現在では、自由貿易が世界的に普及して関税をかけることに対しては批判が集まるようになっているのです。そのため、TPPなどの自由貿易圏を作る際には、各国とも国内産業を守るために熾烈な交渉がおこなわれていました。TPPによって日本の農家が大きな被害を受けると言われているのはこのためです。

当初の不平等条約の課題は関税自主権だった

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江戸時代末期から明治時代にかけて、日本には産業革命で生産力を高め、安い繊維製品、機械などを生産していた欧米諸国からの輸入が増加していました。そのため、農村などは生産したものが売れなくなり、非常に苦しい生活を強いられており、不平等条約の改正ではこの関税自主権を回復させることが最重要課題になっていたのです。

明治政府の不平等条約に対する取り組みは岩倉使節団から始まった

明治新政府は、この不平等条約を改正することを最初から重要課題としていました。そのため、明治時代初期に行われた岩倉使節団では、海外を回ってこの条約を改正させることが主目的になっていたのです。行く前には、簡単に改正できると思っていたのでしょう。

しかし、実際に欧米諸国を回って、同行した大久保利通や木戸孝允は、欧米の先進産業や政治の仕組み(民主主義)を見て驚愕し、日本の後進性を実感させられたのです。しかも、イギリス、アメリカなどから、日本が近代国家に生まれ変わらない限り、条約の改正には応じられないと断られました。

そのため、日本の近代化の重要性を認識した大久保利通は、日本の留守番をしていた西郷隆盛などの征韓論に反対し、仲間割れをしてまでも日本国内の近代化を最優先させたのです。

大久保利通は、内務卿として富岡製糸工場などの近代工場の設置を進めています。そして、その進展とともに、条約改正交渉をおこなおうとしたのです。

ノルマントン号事件に至るまでの条約改正交渉

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1886年のノルマントン号事件までにおこなわれた条約改正交渉を簡単に見てみましょう。ノルマントン号事件までの条約改正交渉は関税自主権を中心におこなわれていました。その経過を見てみましょう。

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