関税自主権よりも治外法権の撤廃に交渉の重点が変わった
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開国によって海外から多くの安い製品や機械製品が入ってきたために、最初は国内産業の多くが打撃を受けたため、不平等条約では関税自主権の回復が明治政府の急務でした。しかし、ノルマントン号事件によって、当時の条約改正交渉の主題は治外法権の排除に向かわざるを得なくなったのです。
井上馨は辞職し、その後に外務大臣になった大隈重信は、治外法権についても重点的に交渉するようになります。しかし、大隈重信は、井上馨と同様に大審院に外国人判事を採用することで決着しようとしていることがわかり、井上同様に批判や反対が強まりました。その結果、大隈重信は国家主義者などの暴漢に襲われて負傷し、外務大臣の辞職せざるを得なくなったのです。
大隈重信は後に総理大臣になり、早稲田大学の創始者にもなった人物でした。
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伊藤博文の明治政府の近代化策_憲法と議会の設置
このような条約改正交渉が進まない状況の中で、1880年代の明治政府のリーダーには伊藤博文がなっていました。彼は、内閣を組織し、自由民権派を押さえる意味もあり、憲法の発布と議会の設立を約束し、条約改正の後押しをしようとしたのです。
そして1889年に明治憲法(大日本帝国憲法)は発布され、翌年には総選挙がおこなわれ、帝国議会が開催されました。
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ノルマントン号事件後の不平等条約改正交渉
井上馨や大隈重信は外国人裁判官を大審院に入れることで手を打とうとしたが、それは批判の集中砲火を浴び、断念せざるを得なりました。そのため、治外法権の不平等改正では、領事裁判権そのものの撤廃を前面に交渉せざるを得ず、諸外国も安易に了承しません。
しかし、憲法発布や議会開催によって世論も落ち着いてくると、政府は再び改正がやり易い関税自主権の回復とセットで交渉することになったのです。
青木周蔵外務大臣の条約改正が身を結ぼうとしたときに大津事件が起きる
憲法制定と議会開催によって日本は名実ともに近代化が進み、産業革命も進み出して、イギリスを中心とした諸外国もそれを認めるようになっていきます。そのため、政府も本腰を入れて条約改正交渉をおこなうようになりました。1891年当時の外務大臣として条約改正に当たっていた青木周蔵は、改正交渉妥結がすぐそこまで来ていたのです。しかし、このときにも思いもよらない事件が起きて交渉は挫折します。すなわち、大津事件が起きて、青木は辞職せざるを得なくなったのです。
大津事件はどう条約改正に影響したのか
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青木周蔵が条約改正交渉をまとめようとしていたときに、ロシアのニコライ皇太子(後のニコライ皇帝)が日本を訪れ、日本国内を視察していました。そのニコライ皇太子が、現在の滋賀県大津市に至ったとき、大津市の警官であった津田三蔵によって襲われる事件が起きたのです。ロシア側は神戸港に停泊していた軍艦に戻り、犯人の極刑を求めました。ロシアの怒りを恐れた日本政府は、当時の大審院(現在の最高裁判所)に対して、極刑に処するように指示します。しかし、大審院の院長をしていた小島惟謙は、三権分立を理由にそれを拒否し、単なる傷害事件として裁判を進めさせたのです。
この事件によって、日本の三権分離は世界に認められますが、外務大臣の青木は辞職せざるを得なくなり、条約改正は再び白紙に戻りました。
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