造幣局ってなにするところ?
造幣局は「大阪府大阪市北区天満」にあります。正式名は「独立行政法人造幣局」といいますよ。いきなり固くお役所!という感じがしますよね。ここが本局で中に「造幣博物館」がありますよ。本局というからには支局もあるわけで「さいたま市大宮区」と「広島市佐伯区」の2か所にあるのですね。今回で初めて知りました。「造幣局」というのだから小銭(硬貨)を造っているんでしょ?」といわれる方もおられますよね。正解です!ただし半分だけですが。そこで造幣局の正体をみてみましょう。ちなみに、たまに勘違いしている人がいますが「紙幣」は造っていません。
造幣局はどうやってできたの?
1868年5月16日(慶応4年4月24日)まだ元号が明治になる前ですね。政府は「金座(大判・小判を造っていた)」と「銀座(一分銀などの銀貨を造っていた)」を接収して「貨幣司」という役所を6月11日(慶応4年閏4月21日)をつくり、二分銀と一分銀を引き続き造らせていました。その年に「参与会計事務官・三岡八郎」「外国事務局判事・五代才助」らが「イギリス帝国・香港造幣局」が廃止になったことから、不要になったコインに印をつける「造幣機械(フランス製圧印機)」を6万両で購入する契約を結びます。11月1日(明治元年9月17日)に英国建築技師の「トーマス・ウォートルス」が明治政府に雇用されて「局舎設計」「機器購入担当」していますよ。
1869年にイギリス領インド帝国にある植民地銀行である「オリエンタル・バンク」と「貨幣鋳造条約」が締結。1870年3月3日(明治3年2月2日)に旧香港造幣局長「トーマス・ウィリアム・キンドル」が造幣寮首長に任命ことになると、その3日後に貨幣司を廃止して太政官に「造幣局」が設置されます。そして8月15日(明治2年7月8日)に「造幣寮」と名前が変わって「大蔵省所属」となったのですね。明治政府の新しい時代への模索がうかがえますよね。
大阪本局創業!
大阪本局で、1871年1月17日(明治3年11月27日)に「銀貨製造」が開始。4月4日(明治4年2月15日)に「大蔵省造幣寮」として創業。6月27日(明治4年5月10日)に「新貨条例」「造幣規則布告」がされることになって近代的貨幣制度が開始という流れとなったのですよ。明治5年にはドイツ製(ユロル社製)の1分で60枚の圧印ができる大型機械を購入していますよ。今でも慶応4年に購入したフランス製のも含めて、第二次世界大戦で大阪は大空襲を受けているのですが、建物を含めて残っているのが凄いですね。
創業の頃から貨幣鋳造した時の余剰発生したガスで日本初のガス灯を工場だけでなく周辺地域にも設置したことから、当時は桜ではなくガス灯見学に多数の人たちが見学にきたそうですね。
明治政府は「殖産興業」「富国強兵」を推し進めるため、欧米の技術や学問を取り入れる「御雇外国人」と呼ばれる外国人を雇っていたのですよ。上記のキンドルなどがそうですね。ところが1875年(明治8年)1月31日限りでキンドルら御雇外国人10人を解雇してしまいます。改革のためなのでしょうが、ちょっと気の毒ですね。そして「試験分析局のディロン」「冶金室のウィリアム・ゴーランド」に造幣頭の顧問役を兼任させることになったのですよ。1877年(明治10年)1月11日に名前が「造幣局」に戻っていますね。
そして現在へ
貨幣製造のための地金の業務をするために、1879年(明治12年)9月16日に大蔵省内で東京出張所が開設するものの廃止や再建を経て、1943年(昭和18年)9月1日に造幣局東京支局となったものの、1945年(昭和20年)4月13日東京大空襲で全焼して機能停止となりました。大阪本局の大阪大空襲の被害は工場の一部だけだったようですね。
1945年(昭和20年)2月1日に広島県佐伯郡五日市町へ造幣局広島支局が開設。8月6日に広島市への原子爆弾投下により被災しましたが1946年(昭和21年)1月15日に貨幣製造を再開。同月に東京支局も貨幣製造を再開。1949年(昭和24年)6月1日に大蔵省の外局で長官を長とする「造幣庁」となりましたよ。1952年(昭和27年)8月1日に大蔵省の附属機関の造幣局となり「国家行政組織法」の改正で1984年7月1日に大蔵省の特別の機関となりました。2003年(平成15年)4月1日に独立行政法人化という現在の状態になったのですね。東京支局は2012年(平成24年)9月に、さいたま市に移転して「さいたま支局」となったのですよ。
造幣局のお仕事
さて、いよいよどんなお仕事なのかということですね。みなさまお馴染みの1円硬貨・5円硬貨・10円硬貨・50円硬貨・100円硬貨・500円硬貨の製造はもちろんのことですが、他には「勲章」「褒章」「金属工芸品」等の製造・「地金」「鉱物」の分析や試験・貴金属地金の精製・貴金属製品の品位証明(ホールマーク)とけっこうありますね。「ホールマークってなに?」と思われる方もおられるでしょうが「18金」とか貴金属に圧印されているマークですよ。
高度な通貨偽造防止技術を活かして、色々な国の通貨・記念硬貨やメダル製造も行っているそうですね。日本で行われた(行われる)オリンピックのメダルも、意外と知られていないと思われる「名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)」も造幣局が制作したそうですよ。
春の風物詩「桜の通り抜け」
大阪本局には「日本さくら名所100選」に選定されていて134品種338本の桜が植栽されています。毎年4月中旬に「遅咲きの八重桜」が開花している7日間だけ、敷地の一部が一般公開されているのですね。みなさんご存知のソメイヨシノだけでなく、原種や古来からある見たことのないような多品種が見ることができますよ。珍しい緑色の桜などもあります。昼間だけでなく日没後もライトアップされて夜桜鑑賞ができますよ。学校帰りや会社帰りの人たちで大盛況です。
なぜ通り抜けがはじまったの?
実は造幣局の敷地は、戦国大名の「藤堂高虎」で有名な「津藩」藩主の藤堂家の屋敷だったそうですよ。大名屋敷だったのですね。その時点で「約120品種・約400本」の桜があったそうですよ。それをそのまま引き継いで大川の川岸にある通りに移植して、敷地内には明治3年(1870年)以降に新たに桜の若木を植えて並木にしたそうです。
明治16年(1883年)に当時の造幣局長「遠藤謹助」が「役人だけが花見をしていてはいけない」と一般公開を始めたのが「桜の通り抜け」の始まりといいますから、けっこう歴史があるのですね。「桜の通り抜け」の呼称は明治40年ごろに定着したそうですよ。しかし昭和18年(1943年)から昭和21年(1946年)は「太平洋戦争」で中止されました。大空襲でかなりの桜が焼失したのですが、職員達が一生懸命にたくさんの品種の桜を集めて桜並木を復活させたのです。
昭和43年(1968年)から、前の年に花見客が将棋倒しになって死傷者がでたことから「川崎橋方向の南側ゲート→桜宮橋方向の北側ゲート」という一方通行となったのですよ。やはりたくさんの人が集まるのでそういうこともあったのですね。昭和50年(1975年)からは毎年一品種が「今年の花」として紹介されるようになります。「通り抜け記念メダル」の販売も始まったのもその年からだそうですね。
平成23年(2011年)は「東日本大震災」には夜桜ライトアップを取り止めて昼間のみ開催されて、開催7日間で1000万円余が募金が集まったといいますよ。
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