イギリスが鍵だった条約改正
日本の条約改正交渉は、イギリスが鍵を握っていました。もともと、不平等条約である修好通商条約はアメリカとの締結が最初でした。しかし、アメリカは南北戦争などが起こり、それどころではありません。この当時、世界で一番の大国かつ強国はイギリスでした。世界で最も早く産業革命をなし遂げ、植民地も大きく獲得していたイギリスは、生産力でも抜きん出ており、明治前半の日本の貿易でもそのシェアは他国に抜きん出ていたのです。
そのため、イギリスが条約改正に首をたてに振れば、成立すると言われていました。
しかし、そのイギリスは、1878年に当時の外務卿(外務大臣)であった寺島宗則が交渉しても、日本は憲法もなく、議会もない後進国であることを理由に条約改正には反対でした。
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鹿鳴館で有名な維新の志士の一人井上馨外務卿の交渉
そのため、1882年に外務卿(外務大臣)になっていた井上馨は、諸外国の外交官などを近代欧風洋館の鹿鳴館に招き入れ、毎夜パーティーを開催してしました。社交の場を通じて交渉しようとしたのです。井上馨は、明治維新の時の志士として有名でしたが、外国に媚びる行為として批判を浴びました。風刺画で有名なビコーもこの様子を滑稽に描いています。
ノルマントン号事件当時の条約改正は井上馨が行っていた
そして、ノルマントン号事件が起こった際には、引き続き外務大臣に就いていた井上馨が条約改正交渉を続けていました。当時は関税自主権の回復が一番の課題になっており、治外法権については、外国人を大審院(現在の最高裁判所)の判事に入れることで解決しようとしていました。
ノルマントン号事件によって国民の不満は治外法権に強く移った
しかし、井上による条約交渉は不平等条約でも関税自主権の改正を主題に進めていました。そこにノルマントン号事件が発生したのです。当然、国民は、不平等条約に対して、外国人が日本国内で罪を犯しても日本人が裁判できない治外法権(領事裁判権)の撤廃を強く求めるようになりました。同時に、井上馨の条約改正交渉で、外国人を判事として入れることで交渉していることが判明し、井上馨の条約改正交渉に対して強い批判が沸き起こったのです。
そのため、井上馨は辞任に追い込まれ、条約改正交渉はやり直さなければならなくなりました。