後三条天皇の親政
後朱雀天皇の第二皇子として生まれた後三条天皇は、母親が藤原北家以外の出身で関白頼通から冷遇されていました。1068年に天皇に即位すると、後三条天皇は反摂関家勢力を登用し摂関家から政治を取り戻そうとします。
1069年、後三条天皇は延久の荘園整理令を発布。記録荘園券契所を設置し基準を満たさない摂関家の荘園を次々と没収し摂関家に大打撃を与えます。
摂関家側は頼通と教通の兄弟が対立していたため、後三条天皇の施策に対し有効な手を打つことができませんでした。
1072年、後三条天皇は病に倒れてしまいます。1073年、後三条天皇は亡くなってしまいました。しかし、後三条天皇の摂関家から政治を取り戻そうという意思は次の白河天皇に受け継がれます。
白河上皇による院政
1073年に即位した白河天皇は20歳で即位。父である後三条天皇と同じく荘園整理などに力を入れ、摂関家の権勢を弱めようと画策します。1086年、白河天皇は8歳の堀川天皇に譲位。自らは上皇となりました。
白河上皇は反摂関勢力である地方の受領層を院近臣として院政を始めます。律令や様々な法令に縛られる立場であった天皇と異なり、元天皇である上皇は法にとらわれることなく政治を行うことができました。
上皇が政務を行う場所を院庁といいます。院近臣たちは院庁で上皇の命令に従って職務を遂行しました。また、上皇は天皇に対しても指導的立場を行使。意のままに朝廷を動かすことができました。
白河上皇の下には全国各地から荘園が集中し、その権力は摂関家をはるかにしのぐものとなります。絶頂期の白河上皇の意のままにできなかったものは、賀茂川の水と双六の賽の目、宗教的な権威を背景とした比叡山の僧兵(山法師)だけだといわれました。
保元・平治の乱と平氏政権
白河上皇は院政を支える武力として北面の武士を設置します。北面の武士として最も成長したのが伊勢平氏でした。
伊勢平氏の平正盛は白河上皇と結びつくことで勢力を拡大。続く平忠盛は鳥羽上皇と結びついて瀬戸内海や九州北部での利権を確保しました。
1156年、鳥羽上皇が亡くなると崇徳上皇と後白河天皇が朝廷の主導権をめぐって対立。摂関家内部での権力争いなども重なり、崇徳上皇側も後白河天皇側も武士を動員。京都で戦いになりました。これが、保元の乱です。
保元の乱は後白河天皇側が勝利します。勝利に最も貢献したのが平忠盛の子である平清盛でした。清盛は、後白河天皇の側近同士の争いとなった平治の乱でも勝利。武力を背景に朝廷の実権を握ります。
平清盛の政権のことを平氏政権ともいいますね。1181年、位人臣を極めた平清盛が死去すると、全国各地の反平氏勢力が挙兵。源平争乱の時代となりました。
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平安時代は天皇から貴族、貴族から武士へと権力が移った時代だった
平安時代初期、政治権力は天皇のもとにありました。その後、藤原良房・基経が他氏排斥に成功すると、政治は藤原氏のものとなります。摂関政治の時代、藤原氏のトップである氏長者の座をめぐって内紛が絶えませんでしたが、内紛に勝利した藤原道長と頼通が長期政権を築きました。その後、摂関家の力を越えるため白河上皇が院政を開始します。鳥羽上皇が死去すると、最高権力者の座をめぐって保元の乱が発生。その後の平治の乱にも勝利した平清盛が平氏政権を樹立します。権力が天皇から貴族、武士へと移った様子がわかりますね。
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