薬子の変
806年、桓武天皇が死去したのち、平城天皇が即位しました。しかし、平城天皇は病気のため809年に天皇の位を弟の嵯峨天皇に譲り、自らは太上天皇となります。
810年、平城太上天皇は平城京に都を移すことを主張し嵯峨天皇と対立。一時は朝廷が二つに分裂する二所朝廷とよばれる事態になります。
これに対し、嵯峨天皇は秘書官である蔵人所を創設し、腹心の藤原冬嗣をトップである蔵人頭に任命し対処に乗り出しました。
嵯峨天皇と藤原冬嗣は迅速に兵を集め、平城太上天皇の機先を制します。嵯峨天皇が派遣した兵は平城太上天皇の側近である藤原仲成を射殺し、仲成の妹で平城太上天皇の寵愛を受けていた藤原薬子は自害に追い込まれました。
この政変を薬子の変といいます。
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嵯峨天皇の時代
薬子の変を制した嵯峨天皇と藤原冬嗣は政治改革を実行します。桓武天皇のころ、すでに律令制度の立て直しが図られ、律令にない新しい官職(令外官)が作られていました。
蝦夷平定のための官職である征夷大将軍や国司交代の際の監視役である勘解由使などは桓武天皇が創設していますそれに加え、嵯峨天皇は天皇の側近として機密事項を扱う蔵人頭や京都市内の治安維持にあたる検非違使などを新たに設置。
さらに、藤原冬嗣らに命じて「弘仁格式」を制定し律令制度の立て直しに努めました。
嵯峨天皇は漢詩や書にも造詣が深かったことで知られています。空海や橘逸勢とともに三筆の一人に数え上げられるほどでした。
また、嵯峨天皇には多数の皇子皇女がいたため、宮廷費が膨らみます。その対策として嵯峨天皇は皇族を整理。多数の皇子に源姓を与えて臣籍降下させます。これを嵯峨源氏といいました。
藤原氏の台頭と他氏排斥
平安時代中期になると、藤原氏、中でも藤原北家の勢力が拡大します。藤原氏は自らの権力基盤を固めるため、他氏を積極的に排斥していきました。藤原良房は承和の変や応天門の変で、藤原基経は阿衡の紛議で他氏を排斥します。9世紀末の宇多天皇は藤原氏に対抗するため菅原道真を登用しますが、宇多天皇の出家後に道真も失脚させられました。969年の安和の変でも他氏排斥に成功した藤原氏は権力を独占します。
承和の変と応天門の変
嵯峨天皇時代の後半、藤原冬嗣の子である藤原良房が着実に力をつけていました。良房は蔵人頭や参議を経て、中納言に昇進します。今でいう閣僚クラスになったといってよいでしょう。
842年、仁明天皇の皇太子恒貞親王の側近である伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢が謀反を起こした疑いで逮捕され、流刑に処されました。この事件を承和の変といいます。
この事件後、仁明天皇の側近として力をつけていた藤原良房が大納言に昇進。政治の中心に立つようになりました。
866年、大納言の伴善男は対立していた左大臣源信の失脚を狙って皇居の門の一つである応天門に放火しました。しかし、放火が伴善男の仕業であることが発覚すると、伴善男は失脚。これが応天門の変ですね。
事件の事後処理の過程で良房はさらに強い権限を手にします。応天門の変の直後、良房は臣下で初めて天皇の後見役ともいえる摂政に任命されました。
阿衡の紛議
藤原基経は藤原長良の三男として生まれました。その後、藤原氏のトップとなっていた叔父の藤原良房に能力を認められ養子となります。基経は順調に昇進し、藤原良房の死後は藤原氏のトップとなりました。
884年、陽成天皇の行いが暴虐だとして退位に追い込み、光孝天皇を即位させます。887年、光孝天皇が死去すると宇多天皇が即位。この時、宇多天皇が基経に下した勅書が問題とされました。
勅書には「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」と書かれます。ある学者が「阿衡」は高位だが職掌がないと基経に告げたため、基経は朝廷に出仕せず政務を放棄してしまいました。
困った宇多天皇は勅書を起草した橘広相を処罰し、自らの誤りを認める詔を発します。基経は改めて政治の全権に影響力を及ぼす関白に任じられました。この事件を阿衡の紛議といいます。
宇多天皇の親政と昌泰の変、安和の変
阿衡の紛議で基経に屈した宇多天皇は、学者の菅原道真を登用し反撃の機会を待ちます。891年、藤原基経が死去すると宇多天皇は菅原道真をブレーンとして親政を行いました。宇多天皇の親政を寛平の治といいます。
897年、宇多天皇は突如出家。醍醐天皇が即位します。この間隙に付け込んだのが藤原時平でした。時平は醍醐天皇に働きかけ、菅原道真を失脚させ太宰府に追放します。この事件を昌泰の変といいました。
道真は追放先の大宰府で死去します。道真の死後、京都では昌泰の変の関係者の事故死や病死が相次ぎました。極めつけは宮中の清涼殿への落雷。これにより大納言藤原清貫ら多くの死傷者が出ました。
ついには醍醐天皇まで体調を崩します。道真の祟りと恐れた朝廷は道真の罪を許し、道真を神として祀りました。
969年、左大臣源高明に謀反の疑いがかけられ失脚。これが安和の変です。承和の変に始まる藤原氏の他氏排斥は安和の変でひとまず終了。朝廷で藤原氏に対抗できる氏族はいなくなりました。
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