平安時代日本の歴史

一気に辿ってみよう「平安時代」400年の歴史。元予備校講師がわかりやすく解説

摂関政治と藤原氏の内紛

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藤原氏が天皇の代わりに政治を行う摂政や関白を独占して行った政治を摂関政治といいます。他氏を排斥した藤原氏の内部では、摂政や関白の地位を左右する藤原氏トップの氏長者の座をめぐる争いが頻発しました。中でも、藤原兼通と藤原兼家による兄弟争いや藤原伊周と藤原道長の争いが有名ですね。こうした身内の争いに勝利した藤原道長とその子の藤原頼通は親子で長期にわたって政権を独占します。

藤原兼通と兼家の兄弟争い

10世紀後半に藤原氏の氏長者の座をめぐって争ったのが藤原兼通兼家の兄弟です。二人の兄である伊尹はすぐ下の弟である兼通よりも、その下の弟である兼家をひいきにしました。そのため、兼家の官位が兼通の官位を上回る事態まで発生します。

972年、兄の伊尹が病のため官職を退きたいと円融天皇に申し出ました。兼通は妹で円融天皇の母にあたる安子の遺言状を円融天皇に提出。それが決めてとなり兼通は兼家を出し抜いて内大臣となりました。

977年、今度は兼通が病の床に臥せります。そのとき、兼家の牛車が兼通の家の前に差し掛かりました。普段不仲とはいえ、最後は見舞いに来てくれるかと兼通は思い部屋を片付けさせます。ところが、兼家の牛車は兼通の家の前を素通りし宮中へと向かいました。

このことに怒った兼通は病を押して宮中に参内。最後の人事異動を発令し、兼家を格下げする人事を発令。間もなく死去しました。兼家が復権するのは2年後のことです。

藤原伊周と藤原道長による争い

兼通の死後、ようやく復権した藤原兼家は、自分の息子たちの官位を引き上げ、自分の地位を磐石のものとしました。兼家の死後、長男の道隆が摂政・関白の座に就きます。道隆は自分の子である伊周の官位を強引に引き上げました。その結果、伊周の官位は叔父である道長よりも高くなってしまいます。

また、道隆は娘の定子(伊周の妹)を一条天皇の后としました。道隆の強引な人事は人々の反発を招き、道隆の死後、伊周への反発へと変化します。

996年、伊周と弟の隆家は夜に女性の下に通う花山法王を、自分たちの恋敵と誤認し、矢を射掛けると言う不祥事を起こしました。この一件を利用し、道長は伊周と隆家を失脚させることに成功します。

藤原道長と藤原頼通による長期政権

伊周を排除した道長は、自分の娘を一条天皇の后として宮中に送り込みます。一条天皇の死後、三条天皇が自分で政治を行おうとした為、道長と対立しました。

三条天皇が目の病で失明寸前となると、これ以上政治を行うのは不可能だとして道長は三条天皇に譲位を迫ります。結局、三条天皇は道長の圧力に屈し、後一条天皇に位を譲りました。

道長は自分の娘たちが生んだ天皇である後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の外祖父として権勢を振るいます

晩年、道長は「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」という和歌を残していますが、道長はそういいきっていいほど絶対的権力を持っていました。

道長の死後、長男の頼通が摂政・関白として道長以上に長い50年余にわたって政治の頂点に立ちます。頼通が作らせたのが阿弥陀如来を本尊とする平等院鳳凰堂でした。現世だけではなく、来世でも幸せを願ったのかもしれませんね。

院政期の政治

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11世紀後半、170年ぶりに藤原氏を直接の外戚としない天皇である後三条天皇が即位しました。後三条天皇の政治は藤原氏に大きな打撃を与えます。次の白河天皇は早々に堀河天皇に譲位し院政を開始しました。院政期に勢力を拡大したのが院近臣、中でも平氏一族です。中でも平清盛は上皇をしのぐ力を手にし、平氏政権を樹立します。

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