鑑真来日以前の日本仏教
古墳時代の中期から後期にかけて、中国大陸や朝鮮半島から多くの人々が日本にやってきました。彼らのことを渡来人といいます。渡来人は様々な知識や技術を日本に伝えました。彼らが日本にもたらしたものの一つが仏教でした。正式に日本に仏教が伝えられたのは6世紀半ばのことです。日本に伝えられた仏教は国家の保護を受け、大寺院を中心に繁栄します。奈良時代になると、寺院や僧侶は国家による保護を受け免税の対象となりました。それに目を付けた人々は勝手に僧侶となる私度僧となり税を逃れるようになります。政府は僧侶の認定制度を整える必要に迫られました。
仏教の伝来
4世紀から6世紀にかけて、日本は古墳時代です。このころ、中国大陸や朝鮮半島では長期にわたる戦乱が続きました。戦乱を逃れるため、中国や朝鮮半島の人々の一部は倭国と呼ばれていた日本にやってきます。彼らのことを渡来人といいました。
渡来人たちは自分たち個人の信仰として仏教や仏像を持ち込みます。仏教が正式にもたらされたのは6世紀の中頃。552年説と552年説がありますが、どちらの説でも朝鮮半島にあった百済の聖明王が日本の朝廷に仏教や経典を送ったとされます。正式な仏教の伝来を仏教公伝といいました。
ところが、仏教が正式に伝わっても日本国内では仏教を受け入れるか古代から続く神道を重視すべきかで意見が分かれます。最終的に、仏教受け入れ派の蘇我氏が反対派の物部氏を下し、朝廷は仏教を受け入れました。
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私度僧の横行
飛鳥時代の終わりごろにあたる701年、朝廷は大宝律令を制定しました。遣隋使・遣唐使が持ち帰った知識をもとに、日本風の律令を作り上げます。律令では人々に土地を与えるかわりに多くの税を徴収しました。
律令によって定められた税は多岐にわたります。
与えられた田畑である口分田の収穫に課せられた租や、布を納める調、10日間の都での労役か布を納める庸、国司の下で60日間の労役に従う雑徭、各地の軍団や都の警備、九州北部や東北地方などに配置される防人などの兵役義務など、口分田と引き換えとはいえかなりの重負担でした。
税を払えなくなった農民たちは土地を捨てて他の地域に移る浮浪や完全に姿を消してしまう逃亡などを行い税負担から逃れようとします。税から逃れる一つの手段が僧侶になることでした。国が保護する仏教や僧侶は免税の対象だったからです。
そのため、正式な修業を経ることなく勝手に僧侶となる「私度僧」が数多くあらわれてしまいました。
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鑑真、命がけで日本を目指す
私度僧が横行することにより、国家の財政を揺るがしかねない事態が発生しました。朝廷は僧侶になる数を制限するなど対策を打ちましたが、私度僧の増加を止めることはできません。正式な僧侶認定制度を打ち立てるため、朝廷は僧侶が守るべき戒律に詳しい僧侶を唐から招こうと考えます。中国に派遣された日本僧は戒律をよく知るとされる鑑真(がんじん)のもとを訪れました。鑑真は日本僧たちの願いを聞き入れ、自ら日本に向かおうとします。しかし、旅は困難を極め幾度も失敗。ついには鑑真自身が失明してしまいます。
日本僧の到来
733年、朝廷は栄叡(えいよう)と普照(ふしょう)という二人の僧侶を唐に派遣します。彼らは洛陽大福先寺で正式な戒律の一つである具足戒を与えられました。二人は唐で伝戒師として来日してくれる僧侶を探し求めます。
唐に滞在すること10年、彼らは中国南部の揚州にある大明寺にいた鑑真と接触しました。日本僧を迎えた鑑真は弟子たちに対し、日本にわたって戒律を伝えたいものがいるかと問いかけましたが、希望する弟子はいません。その理由は日本までの航海の厳しさがあったからです。
7世紀ごろ、遣唐使船は朝鮮半島伝いに中国に向かう北路が多く用いられていました。しかし、日本と新羅の関係悪化により北路が使えなくなります。そのため、波が高い東シナ海を突っ切る南路を活用せざるを得ませんでした。沿岸黄海に比べ外洋航海はリスクが増します。このことを知っていた弟子たちが日本行にしり込みしたのも無理はありませんでした。