奈良時代日本の歴史

幾たびの海難・苦難に耐え日本にやってきた伝戒の高僧「鑑真」を元予備校講師がわかりやすく解説

幾度となく繰り返される失敗

希望する弟子がいないと知った鑑真は自ら日本に向かい戒律を伝える決心をします。鑑真の渡海の決意を知った弟子21人は鑑真に随行することを申し出ました。

743年、鑑真が渡海の準備をしていると唐の役人が鑑真のもとを訪れ、日本僧を連行し揚州から追放してしまいました。役人が栄叡と普照を追放した理由は、鑑真の弟子の一人が渡海を嫌がり唐の港湾役人に日本僧が海賊であるとの密告をしたからです。

しかし、鑑真は渡海をあきらめようとしませんでした。744年、鑑真は周到に準備し渡海を試みます。ところが、この時は暴風雨に遭遇してあえなく失敗。3回目と4回目は事前に役人に知られてしまい出航を差し止められてしまいます。いずれも、鑑真の弟子や鑑真の出国を惜しむ人々が港湾役人に密告したためでした。

748年、鑑真は5回目の渡海を試みます。この時は出航することができましたが、またしても暴風雨によって失敗してしまいました。

鑑真一行は日本ではなく南の海南島にたどり着いてしまいます。海南島から揚州に戻る途中、栄叡が病死。普照は大声で泣いて死を悼みました。また、鑑真は揚州への帰路で疲労などが原因となり失明してしまいます。

念願の来日

753年、藤原清河を大使とする遣唐使が唐を訪問します。このとき、鑑真は遣唐使船に乗って日本に行こうとしました。ところが、藤原清河は唐が出国を禁じていることを理由に、鑑真の乗船を拒否します。しかし、遣唐副使だった大伴古麻呂は大使の清河に内緒で鑑真一行を受け入れました。

遣唐使船4隻の内、3隻は沖縄に到着。その後、遣唐使一行は沖縄から日本を目指します。しかし、清河が乗った第一船はまもなく座礁してしまいました。その後、第一船はベトナムに漂着します。ちなみに、このとき第一船に乗っていたのが帰国を熱望していた阿倍仲麻呂でした。仲麻呂も清河も日本に帰国することはできず、唐で生涯を終えます

鑑真一行が乗った第二船は鹿児島県坊津に到着。無事に日本にたどり着くことができました。こうして、鑑真は六度目にしてようやく日本の土を踏むことができたのです。

鑑真来日後の日本仏教

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大宰府で歓迎を受けた鑑真一行は奈良平城京にたどり着きました。都にたどり着いた鑑真は聖武上皇や孝謙天皇の歓迎を受けます。鑑真は朝廷から戒壇の設立と授戒について面々的に一任されました。759年、鑑真は唐招提寺を与えられ授戒や薬草知識の伝授などを行います。

東大寺大戒壇の設立と日本律宗の始まり

九州に到着した鑑真は、九州を統括する役所だった太宰府に向かいます。鑑真は太宰府にあった観世音寺の一角に戒壇院を設立。日本到着後初めての授戒を行いました。戒壇院は現在も太宰府市にあり、江戸時代の1680年に再建された本堂は福岡県指定文化財となっていますよ。

平城京にたどり着いた鑑真は聖武上皇孝謙天皇の歓待を受けます。孝謙天皇は鑑真に戒壇の設立と授戒の全てを任せるとの詔勅を下しました。総国分寺である東大寺に入った鑑真は東大寺に戒律を授ける戒壇を設置し、聖武上皇以下400名に菩薩戒を授けます。

戒壇院の四隅には階段を守護する四天王の像が置かれました。その後、先に太宰府に設置した観世音寺の戒壇院に加えて、下野国薬師寺にも戒壇が設置されます。

これにより、下野薬師寺、平城京、太宰府観世音寺の3か所で正式な僧侶として認定する授戒の儀式を行うことが可能となりました。鑑真招聘の目的である授戒制度の確立が達成されます。

唐招提寺の造営

758年、淳仁天皇は鑑真のそれまで功績をたたえ大和上に任じます。また、実務面で負担が大きい僧綱という僧尼を監督する役職を解きました。これにより、鑑真は戒律を研究する時間的余裕を得ます。

759年、鑑真は新田部親王の旧宅を与えられ、そこに唐招提寺を創建しました。唐招提寺の本堂は奈良時代に建てられたものです。金堂は1270年、1323年、1693年、1898年、2000年とたびたび修復されていますね。

唐招提寺の境内にある講堂も奈良時代のもの。平城宮にあった東朝集殿を移築したものでした。奈良時代の朝廷の建物が残っているのは大変珍しく貴重なものですね。

このほかにも、鑑真和上像盧舎那仏坐像など国宝級の文化財が数多く収蔵されています。昨今は貴重な文化財が火災で焼失するケースもみられるので、今まで以上にしっかりと管理・保全する必要があるでしょう。

鑑真の入滅と鑑真和上像

日本で戒壇を設立し、戒律を重んじる律宗を伝えた後も鑑真は活動をつづけました。鑑真は薬草や彫刻に関する知識も持ち合わせていたので、後進たちに知識を伝授したといいます。

763年、高齢となっていた鑑真は病にかかり、唐招提寺で死去しました。享年76。人々は中国からわたってきた偉大な僧侶の死を惜しみました。鑑真の弟子の一人は生前の鑑真の面影を後世に伝えるべく鑑真の坐像を製作します。これが、国宝として名高い鑑真和上像。晩年の鑑真の姿をよく伝える名作ですね。

現在、鑑真和上像は唐招提寺境内の北側にある御影堂に安置されています。御影堂には東山魁夷が描いた「鑑真和上坐像厨子扉絵」やふすま絵、障壁画などがありますが、2022年までは修復のため拝観することができません。鑑真和上像は、修復中は新宝蔵に移転されているそうです。

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