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日本が近代国家になるきっかけとなった「富国強兵」とは?わかりやすく解説

日本が世界に羽ばたくことになった明治時代。 そんな明治時代に行われたのが富国強兵でした。富国強兵はどんな政策だったのか?今回はそんな富国強兵について解説していきたいと思います。

そもそも富国強兵って何なの?

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富国強兵とは国の経済の発展を通じて軍事力の強化を目指す政策のことを指します。

もともとこの言葉は今から約2500年以上前の中国で最初に用いられ、各国がしのぎを削っている中で国をよくしていこうと諸子百家と呼ばれる優秀な人材を登用したり、新しい戦術や兵器を導入するなどの軍事改革をおこないました。

国をよくしてこうとして政策や有能な人を登用する富国。群を強化して戦争に勝つ強兵。この二つが揃ってこそ中国を生き抜く国家となるということが認知されており、『戦国策』や『呉書』などの書物にも記載されているのです。

そんな中国の考え方が日本に伝ってきたのは江戸時代。この時代では朱子学(儒学)が広まっており、江戸時代中期の朱子学者である太宰春台が記した『経済録』で、この言葉を引用して国を強くしていかないといけたいと説いています。

そして江戸時代末期に入って外国人が日本に来航していくと日本では討幕という流れとなっていき、そして大政奉還が行われて明治政府が成立するとこれまで鎖国していた日本の国力と軍事力の双方を欧米列強と肩を並べることを目指していくために西洋のような改革をしていくことになるのです。

そのため今現在ではこの富国強兵という言葉は基本的には明治時代の日本で推進された国策を指して用いられることが多いですね。

富国強兵が行われるまでの流れ

富国強兵は明治政府のみが行なったのではなく、それ以前の幕藩体制の時にはすでに藩で富国強兵を行なっていました。そんな富国強兵が明治政府にて行われるまでの歴史を見ていきましょう。

ペリー来航の衝撃

1853年にペリーが来航。これまで江戸幕府が行ってきた鎖国制度は崩壊し、外国の文化が入っていくようになりました。

そんなペリー来航でしたが、ペリーは日本に来るときに交流と称してアメリカと日本の文化に触れ合おうとする催しを行いました。日本は日本伝統の漆塗りや相撲などを披露しましたが、アメリカは蒸気機関車のレプリカや電信の技術などこれまで日本が体験したことがなかった技術や文明が目白押し。ペリーからしたらこの文化交流で日本に西洋との文化の差を見せつけようとしたと思いますが、この文化交流を境に日本でもアメリカが持ってきたような技術を作るという熱意が生まれていくのでした。

各藩の富国強兵

ペリーが来航して以降、近代化を目指していくことになる日本。ちなみに、このときに幕府は日米修好通商条約にて不平等な条約の締結を余儀なくされてしまい一刻でも早く条約改正するために近代化を行うべきという主張が上がっていました。

しかし、江戸時代には幕府という制限はあるものの、地方では藩が独自の政策で統治していたため、反応はバラバラ。しかし、藩の中でも有力の藩が近代化を推し進めていくのです。

特に凄かったのが薩摩藩と佐賀藩。

薩摩藩では、近代化に理解を示していた藩主である島津斉彬のもので日本初の近代式工場群である集成館事業に取り組み富国強兵にもとづいた藩政改革が進みます。藩主が亡くなってもその政策は継続して行われていき、のちの倒幕の原動力となっていきました。

佐賀藩ではカラクリ儀右衛門と呼ばれていた田中久重(東芝の創始者)が中心となって蒸気船の模型を作ったり、日本初の製鉄所を開所。また蒸気機関車のレプリカがやってくるとその模型を作ったりと藩の中で産業革命を行う始末。その理由はやはり佐賀藩の藩主である鍋島直正が近代化に理解を示していたからですが、佐賀藩は製鉄所で作った鉄をもとにアームストロング砲を製作。これで佐賀藩は富国強兵を推し進めていきます。

一方の幕府内でも富国強兵を推し進めていく動きが見られていきました。例えば韮山に反射炉を設立して鉄を量産したり、これまで存在していた大船建造の禁を撤廃して長崎に海軍伝習所を設立したりと積極的に近代化を推し進めていきました。

明治維新の始まり 

江戸時代には各藩がばらばらに行っていた富国強兵でしたが、明治時代に入ると東京を首都とした新しい日本が誕生していきさらには版籍奉還と廃藩置県によって中央集権国家が誕生したことで政府を中心とする近代化政策を行っていくことになります。

そこには日本が富国強兵を行わなければ世界に遅れを取るということの危機感が存在しており、富国強兵を行って日本中を近代化させれば天皇中心の国家の威厳が高まり、さらにはアメリカなどと結んだ不平等条約も撤廃されると考えていました。

そしてその考えは内務卿となった大久保利通を中心として成し遂げられていくようになるのです。

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